聖天様は信仰始めたらやめたらいけないという。
罰が当たるという言い方をする方もある。
実際、罰というべきかどうかはおいて聖天様の信仰していて中途で止めたら、次の祈願では打つ手がない状況にはなると感じます。
同じように修行も聖天信仰のお寺でお得度して失敗したら、どこでももうやり直しはきかないという話も聞きました。
だからどこそこの聖天様を信仰してたんですがやめてしまったんですが・・・という上での祈祷はまず聖天信仰を再開するようにとしか言えない。
最低でもそちらへお礼参りや願ほどきはしておかないとそのままで前に進めない。
できれば同じ霊場で再開するのが良い。
それはなぜか?
聖天さんは嫉妬深い神様とか言うけどそうではないと思う。
実は俱生神だからだと私は思っています。
ともに生きる神です。
華厳経によれば誰でも生来二人のペアの俱生神がおり、同生 同名という。
生涯をその神が見てくれる。
聖天尊をはじめてこの俱生神とみなしたのは児嶋寺の真興阿闍梨です。
真興さんの説では眷属の四部大将もついて回る。
例えば赤ちゃんを守っている胎盤は傘蓋毘那夜伽であるという。
以来死ぬまで付いて回る。生まれ変わってもついてくる。
だから聖天の信仰は宿世の因縁によるという。
興教大師は「機縁の至り、感涙抑えがたし」とまで言われています。
聖天信仰止めたらいけないというのは罰とかではなく、つまりせっかく一番身近な俱生神の信仰に目覚めたのに、なぜにそれやめて他に求めるのか?ということだと思います。
生まれながらに守られている恩恵に気付くのが俱生神としての聖天信仰です。
そこの理解から「聖天尊とともにいつも人生を歩む」という本当の揺るぎのない聖天信仰が芽生えるのです。