歓喜天は何故、歓喜天というのか?
世俗には男女交わりの喜びを言うなどというが、それは仏説ではない。
むかし、この尊はなによりも人の喜びをもって歓びとする故、深秘には歓喜天というのだと聞いた。
天尊は仏菩薩をは違って多く強い煩悩を宿す存在。
毘奈夜伽ならずともそうだ。
そしてその煩悩がまた我ら苦海の衆生を救うよすがでもある。
ここに天部の役割がある。.
歓喜天は人の喜びを歓ぶ神様ゆえに、我等のために身を粉にして喜んで働いてくださる。どんな苦労もいとわないで働かれるのだ。
だから通途では考えられないようなご利生も下がるというものだ。
だがそれもまた天尊の煩悩であることに違いないのだ。
信仰の弛みというか、調子が出るにつれて天尊の加護を当たり前のように思いなし、何のありがたさも感謝も感じなくなる。
それどころか自分一人で手柄を立てたように思いなして自慢げに吹聴する。
「尊天様はともかく、俺が勝れているから成功したんだ」という。
これが天尊の逆鱗に触れて恐ろしい結果を生む。
可愛さ余って憎さ百倍になる。
「あなたのおかげですと喜んでもらいたい!」
これがすなわち歓喜天尊の障礙であり、煩悩である。
だがこの想いあればこそ聖天様はハッスルするのだ。
千何百年も護法神をしながらそのような煩悩を脱しないのではない。
そのスタイルが必要だからだ。故に歓喜天は権現身なのである。
行者はそれゆえにそこは歓喜天に同調してはならない。
ゆえに「住職のおかげと言われたい」ために働くのではダメなのである。
結果がいかにてもあれ、黙々と祈る。
特に結果について喜ばれようと、喜ばれないとそこはほとんど構わない。
正直に言えば構いようがないのだ。
「先生、おかげさまにて凄いことが起きました!」と言って興奮してきても淡々と、「ああ、そう、それはよかったね」というくらいでおしまい。
わかりやすく言えば心動かぬ存在であらねばならない。
如何に験力が出ようが自分が天尊い替わることは絶対に許されないのだ。
逆に「どうにもダメです。何とかならないか?」と言われても祈る以外にできることなどないと自覚するべきだ。
であるからこそ、怒れる天尊をなだめ、はたまた、これはという霊験にもはしゃいでうかれ。微々たるおのれの験力を誇るなどもあってはならない。
それでは先ほどの話と同じ理由で天尊の怒りを呼ぶだろう。
聖天行者に増上慢は禁物である。まず謙虚でないと持たない。
行者は全て静かに淡々と捉え、観自在菩薩の役を果たさないとならないのだ。
みようによっても感激の少ないつまらない人間であることに間違いないが、良くも悪くも軽々に心を動かすことは行者は注意すべきだ。