金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

11月滅罪会の感想その23 善龍庵

 

 しかるべき時期と仏縁が熟した時に、心に中にあるわだかまりや罪悪感が自然に浮上して解けてくるものです。その時は仏様に任せるのが、一番良いことです。

【ここから感想】

 

先月は2回目の滅罪会に参加させていただきましてありがとうございました。


遅ればせながら自分が感じた事をお伝えしたく
メッセージさせていただきました。


体調も絶好調で仕事も順調、職場の人間関係も良好でありながらここ数ヶ月、原因不明の不安感や焦燥感にたびたび襲われてました。


自分ではコロナに関してはほとんど心配していないにもかかわらずやはりその影響を意識が吸収してるのかと思ってました。


しかし先日の2回目の滅罪会の行をさせていただいた時にこれは行の成果だとわかりました。


1回目はその事に気付かなかっただけだと。。。


今回は愛犬が17歳で旅立ち、ここ2年間は認知症の症状がひどくて時には怒ったりして傷つけてしまった事を仏様に懺悔したかったのです。


もちろん愛犬についての懺悔がメインでしたが
過去に自分が起こした過ちをたくさん懺悔しました。


修行の最中はなにも変化は感じませんでしたが
結願した後からまた不安感が襲ってきました。


今までの自分の思考パターンやポリシー、ものの見方、ひいては自分はこういう人間なんだと思い込んでたものが根底からグラついてきたのです。


しまいには自分は一体どういう人間なのだろうと
わからなくなりました。
今まで自信を持って築き上げてきたものが
崩れてきたような感じです。


これはおそらく1回目の修行から始まったのだとわかりました。
大森先生がおっしゃってたこの行はマイナスからゼロにもっていく行だというのが腑に落ちました。
それと同時になんてありがたい行なんだと思い、これはしばらく続けていきたいと改めて思いました。
この行はきつい岩山を登っていくようなものですが続けていくうちにいつか
見渡しの良い頂上に辿りつけます。
と先生が書かれていたのはとても励みになります。


1月もぜひ受けさせてください。


今後ともご指導の程、よろしくお願い申し上げます。

 

予告

令和3年度滅罪会は1月に開く予定です。

年明けに当ブログにて告知します。

 


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ミイさん供養

昔、高校生のころ住んでいた藤沢の片瀬からよく龍口寺にお参りに行った。

龍口寺はもともと深沢の五頭竜をお祭りしてあった場所です。

五頭竜は当初狂暴で手が付けられなかったが江の島の弁天様がお嫁入りなさって鎮まられ善龍となったという聖天様みたいな経歴のみたいな竜神様です。

善神になったけど持ち前の荒々しさからその神前で罪人の首を打ったようです。

それが「たつの口の刑場」

なお、現在は五頭竜さまも別な地に遷座されています。以下参照

gozuryu.com

日蓮上人が処刑されかけて江の島から光物が飛来して助けられたという伝説の場所がここ。

実際は当時幕府に絶大な影響力のあった蘭渓道隆禅師が僧侶の首を討つのはいくら何でもよくないと意見したためともいう。

蘭渓道隆禅師は宋の国の方で元(モンゴル)の勢いで故国が滅ぼされて日本に来ていた。

その竜口寺の山上には仏舎利塔が建ち、(これも昔はなかった)その途中に七面大明神をお祭りしていた。

 

七面大明神と言うのは身延山の守護神でやはり竜神様です。

 

ここの尼僧さんが面白い人でした。

お参りにいくと経木でできた船のようなものにお菓子や卵が載せてずらっとお祀りしてある。

「これなんですか?」と聞くと「これはミイさん供養です。だれでも蛇を傷つけたり殺したりすることが多い。それで供養するのよ。」といわれた。

供養しないと「祟る」のかどうかは聞かなかったが、たぶん自発的に蛇供養などする人は多くはないだろうからそういうことかもしれない

無料イラスト] にょろにょろとした蛇 - パブリックドメインQ:著作権フリー画像素材集

私の学生の頃はまだよく蛇もいたし、畑や田んぼでも農家が蛇を嫌って殺したりもした。

益獣なのにね。

それでなくても子供時代などは面白半分に虫やカエルや小動物を殺生をすることが多い。

私は殺生は嫌いだったが害虫などとされているものはためらいなく殺した。子供心に免罪符が出たようなもので殺した。実に申し訳なく思う。

そういう残虐さが人には残っているんだろうね。狩猟動物だったから。

殺すことを喜ぶ心がおしなべてどこかにあるのだと思う。

でないとこれだけ四六時中戦争とかしないでしょ。

 

でも、ただでさえそんな人間が世の中にわんさか出て他の動物は地獄のありさまだと思う。

畜生界はそのまま地獄と変じた。実に申し訳ないことだと思う。

 

所詮生き物は生き物を殺して生きている。生きることは殺すことと大差ない。

だが、だからといってそれは当たり前ではない 考えなくていいとはいわないのが仏道だ。

拙寺も施餓鬼には必ず別して鳥獣魚虫の供養塔場を立てて懺悔しお参りします。

命あるものはお互い様の心を持たないといけないし、万物の霊長と言うなら彼らを時に守ってもやらねばいけないと思う。

そうでないと普通に生きてるつもりでも大きな罪業を積んでしまう。

 

 

光明真言の不思議その4  善龍庵

 

 

光明真言の不思議その3からの続き。

 

そこでナカエさんは、ランさんのところへ行って、

「午後7時に母リクはありがたいこのような臨終で亡くなりました。生前は何かとお世話になりましたが、肉の口でお礼が言えないから、息を引き取ったらすぐにお礼に行くようにと、母が言いましたのでまいりました」といった。

 

ランさんは、

「そうですか。今度床に就かれたと聞いて、あるいはあの世へ参られるかもしれないと思ったので、親しい方に普通は仏壇に供えてある樒(しきみ)の枝を下げてきて、その葉っぱでするのですが、あいにく樒の枝がなかったので「あさだ」の枝を取ってきて、その葉っぱで数取をして三晩光明真言を唱えて“リクさんいい所へお参りくださいよ”と念じて拝ませてもらいました。この葉っぱを、お棺の中へ入れてあげてくださいませんか」と言われた。

 

するとナカエさんが、

「あっ!おばさんそれでわかりました。あれだけ最後までしっかりとしていて、みんなにもいちいちお礼を言い、ご先祖様ともお話をした母でしたが『あさだの森のご殿に参れてありがたい』というのだけが分からず、母も妙なことを言われるものだナ、と思っておりました。おばさんが拝んでくださった光明真言を、母はちゃんと受け取って、そう言っていたのですね。ありがとうございます。お棺の中に入れさせて頂きます」と喜んで持って帰られたと言う。

 

ランさんの拝まれた光明真言が、臨終のリクさんに届いていた。“真言を念じて唱えたならばその人に届く”という有難い霊験実話の一つである。

 

【以上のお話は高野山出版社刊『密教瞑想法』から引用しました。この本は残念ながら絶版です】


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伝授の時、佐伯泉澄大僧正のご著書『密教瞑想法』に揮毫いただいた。

光明真言の不思議その3  善龍庵

 

これは佐伯大僧正が書かれた『密教瞑想法』(高野山出版社)という本の中に記されているお話。

この本は残念ながら絶版である。

同著の202ページから205ページより引用したい。

昭和19年12月のお話である。

 

ここから引用

ここで仲須ランさんが唱えられた光明真言が、臨終の北田リク(昭和19年12月14日88寂)さんに届いてたというお話を申し上げたい。

 

リクさんはランさんの生家のお隣の方で、リクさんの方がだいぶん年上であった。

そういう関係で親しい間柄で、後年ランさんのお導きで光明真言を熱心に唱える仲間にもなられた方である。

 

リクさんはお元気であったが、お亡くなりになる前に数日床に就かれた。そして12月14日の朝、

「今晩の午後7時に、ご先祖様がお輿(こし)を持って迎えに来てくださるから、私はあの世に行く。来られる子や孫を呼んでおくれ」と言われた。

 

そこで子や孫を呼んで、枕元に集まってぐるっと座ると、

「私ランさんに教えられて、光明真言を唱えて幸せに暮らさせていただいた。あなたがたも幸せに暮らそうと思ったら、信心することを忘れないようにくれぐれもしてもらいたい。○○さんありがとう。○○さんありがとう。あなたはこういう事に気をつけなさいよ」と一人一人の名前を呼んでお礼を言い、

 

それから今度は「ご先祖様がお迎えに来てくださった」と言って、いちいちに親しげにご挨拶をした上で、

「あさだの森の御殿に参れてありがたい。仲須ランさんに肉の口でお礼が言えないから私があの世へ行ったらすぐにランさんの所へお礼に行っておくれ」

とコンコンと娘の小林ナカエさんに頼まれた。

 

そして両手を合わせて光明真言、大師宝号を唱えて、

「それでは、さようなら」と言って息を引き取られたのは、ちょうど午後の7時であった。

 

周りの人達はまるで荘厳な極楽参りを目の当たりに拝ませてもらっているような心地であったという。

 

その4へ続く。

 

お知らせ

善龍庵では、光明真言法を報恩謝徳のために修行してご供養する「納め万霊総供養」12月29日から31日まで修行します。その申し込み締め切りは本日19日までです。

詳細は下記リンクをご参照ください。

 

加持力と超能力

加持力と超能力は別なものです。

超能力はだいたい生まれつき備わっている。

練習したとて知れたもので身には就かない。

 

超能力と言えばお釈迦様の十大弟子でも神通第一の目連尊者がいます。

伝説では彼は母が餓鬼道に出していると天眼通で知り、あるいは難陀抜難陀の二竜王を懲らして仏道に引き入れました。

でも残念ながら異教徒のために無惨に殺された。

一説には彼の親友・般若心経で知られる舎利弗尊者も一緒に亡くなったという。

 

金光明経や大般涅槃経を訳出した曇無讖も一種の超能力者で「大咒師」といわれ、山中に王のために泉を沸かしたり、庶民のためには縁結びの咒法を施すなどした人で、のちに河西国で大般涅槃経の訳出に没頭しましたが、その絶大な咒力の評判を聞いた魏の国より彼を渡すよう催促があり、渡さねば兵を送って国を攻めるとまで言ってきた。

鳩摩羅什もそんな逸話がありますね。鳩摩羅什は学僧でしたが彼を取り合って西域の国々が合戦をした。

仏教を欲して戦争するのは矛盾の極みですが・・・

 

魏の恐喝に河西国王は泣く泣く彼を手放し義の国に送ることにしましたが曇無讖は「おそらく旅の途中で私は死ぬだろう、でもこれも私の宿業の然らしむるところであれば・・・」と言って出発しました。

果たして40里をすぎたあたりで河西王は刺客を送り、彼を殺害したと言います。

このように超能力者でも業は越えられない。

むしろ数奇な運命に無く人も多い。

これに対し加持力は仏とつながる力なので程度の差はあっても誰でも可能だし、心正しく修するならそれは幸福につながる力であります。

 

砂漠のオアシスのイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

 

さみしいなあ

これは是非を言うのでは無く、気持ちですが星祭りの受付をしていますが「…淋しいなあ」と思うことがあります。

今回も絶対数の上では早くも多くのお申し込みを頂いておりますが年々「おひとりさま」が多い。

これはどういうことなのだろう。

個人主義が徹底していると思うのならそれもいいのですが…家族の無い方が多いようにも思う。

たとえば夫婦は信仰に対する考えが違うからということで両者が申し込まなくても、お年寄り、子供さんの分などは小さいうちは頼む人が多かったけどそれが少ない。

 

日本全体がおひとりさまが多いのだろう。

 

みんな肩寄せずとも生きていけるからだろうが、果たして最後までそうだろうか?

いつもそうだろうか?

人間には必ず人の手助けのいるときは来る。

私自身も一人だから偉そうに結婚しないのが駄目なのだ!とかいうつももりはまったくないが、家族があるのは人として幸いだと思う。

そして、どんな関係でももっと人と人とが密であっていいのでは…と思う。

経済的なこともあるのかもしれない。

生き方は自由だが家族を持ちたい。子供が欲しい。結婚したいという人が家族を作れる、そういう世の中でないといけないだろう。