このブログをご覧の皆様に稲荷大明神のご加護がありますように。
大杉大神
来月はお山のあちらこちらでお火焚祭があります。
御火焚祭スケジュール
田中社 11月13日土曜日午後2時から
薬力社 11月16日火曜日午後1時から
熊鷹社 11月17日水曜日午後2時から
三徳社 11月18日木曜日午後2時から
この時、三徳社では大漁大神の御神体が御開帳になります。
大杉社 11月24日水曜日午後1時から
傘杉社 11月24日水曜日午後2時から
早くもれいわ新撰組を東京の陣立てのことでもめている立憲民主党。
はじめから天下はとれないものと踏んでいる志位書記長の共産党と「いや絶対にとるのだ!」という枝野党首の立憲民主。
所詮腹の内は違うでしょう。
やくどころでいえば枝野氏が石田三成ならは志位書記長は大阪城内の老獪な毛利輝元。
れいわの山本氏はとんだ軌道外れの薩摩勢のようだし、小勢ながら大谷刑部の様に忠実なのは社民さんくらいかな。
なかなか難しい戦のようですね。枝野先生。
白人右翼というのはどういうものか。
要するに有色人種蔑視の人たちなのか。
何か起これば自分隊以外の者逸見をかぶせ「奴らのせいだ」というのは簡単だ。
大した根拠がなくてもそうだ。そうだ。でおしまい
これらはまさに頭でなく情の考えることだ。
日本でもワクチンは巨大企業の陰謀だとか、抗体検査で遺伝子のサンプルを中国共産党が集めてるんだかとそういうと言う人がいる。
そういう人は自分の頭でものを考えていないのだろうか。
何の根拠も示せないのに。
それとも考える脳自体がないのか。
エイズ発生の時も製薬会社の陰謀とか、ソドミーを滅ぼす神の天罰とか、まったくの想像でけで根拠のないことを騒ぐ人はいた。いつもいる。
エイズウイルスがミドリザルからも出たらしいから、感染源のミドリザルをせん滅せよというバカもいた。だれかミドリザルと性交渉するのか?
ワクチンの普及とともに感染者は減っているのは数が明らかにしている。
オリンピックの開催とともに感染爆発があったのも数が示している。
私はこういうことは数を信じる。それに逆行する人の言うことなど信じない。
ワクチン陰謀論は日本でも右傾の人に多いようだ。
私は右だがそんなこと一切信じない。
そういうことを言うのは人の勝手だが個人的には縁は切る。縁を切るのは私の勝手だ。
ましてやマイクロチップがワクチンに入っているなど声高と言う人は一度脳病院に行くべきだ。
そういうものは国策に対する公務執行妨害、騒乱罪、医療妨害でなんらかの罪に問いたいくらいに思う。
前にもアップしたが弟子がハチ式(蜂を使う呪術)を打たれて真冬なのにスズメ蜂が飛んできて刺されることがあった。スズメバチは二度刺されると命にもかかわるといういう。
これが呪術だと思うのは夢の中でまず蜂に出会うのだそうだ。
それで呪詛返しをして置いたら、一年後に術の期限が切れたおりに即座に刺された。
なんだか怪談「牡丹灯篭」みたいな話だ。
呪詛を時限的で止めておいた形になっていたのだろう。
こういう動物を使う呪術をざっくり式法という。
これに大別して現実の動物を使うのと、動物の死霊を使うの二とおりある。
蜂やムカデを使う話は日本神話にもあるが、これは陰陽道か、神道系だろうと思っていた。民間のまじないに多い。と言ってもプロのやることだ。
それもかなりのものでないとここまでは無理だろう。
密教にはそういう実際の生き物由来の術のはない。修験にも。密教系は護法と言われる霊的眷属を遣る術はある。
飯縄の法は狐だがこの世の狐を使うものでも、死んだ狐を使うものでもない。
霊狐もまた眷属霊だ。
さてはて、どんな術だか知らないが・・・と思っていたら灯台下暗しだ。
どうも伊弉諾流らしい。四国は高知淵源の呪術。
私は伊弉諾流は知らないが祖父がその使い手だった。
誤解を避けるため一言するが、もちろん伊弉諾流は断じて呪殺の術ではない。密教に調伏があるようにほんの一部にそうした術があるだけで、多くは問題解決のための優れた術である。
だが、その効き目はすさまじいので師匠の話では「四国の修験者は高知の術者(伊弉諾流)とはケンカしたがらない」という。
今はないだろうが師匠の若いころは子供でも「蛇付けてやるぞ!」くらいのタンカはきったらしい。
似た術を勉強しておく機会があったがコロナで延び延びになっていた。やはりやっておこうと思う。
まあ、それにしても有名な犬神のように生き物を犠牲にする術だけは当然、殺生戒に触れるし、断じてやりたくもない。たとえ巨万の富を引き寄せられ、それがどんな善事につかえたとしても、それは仏教者のすることではない。
ものの本に歓喜天の歓喜は人を喜ばせて、それをもって自分も喜ぶということで歓喜なのだという話がある。
そういう解釈もあるかも知れない。
だが私の解釈は別だ。
喜ぶ一人は自分であることは変わりないが、もう一つの喜びは人様ではなく聖天尊の喜びだ。
天尊が喜ぶか?否か?を常にアンテナ貼っておくのが聖天信仰。
尊天の嫌いそうなことは自然とさけるようになるが、それがまず安全第一の御加護であります。天尊に間違いはない。
人を喜ばせて自分が喜ぶというのは素晴らしいようだが実は違うだろう。
良かれと思ってもさして喜ばれぬこともある。拒否されたりもする。
人によっては不平等な特別待遇や贔屓を喜ぶ人もいる。
正しいことを喜ぶとは限らないのが人間なのだ。
そして人を喜ばすのはなかなか大変だ。
故にそれ自体にそんなに大事な意味はないだろう。
そもそも人が喜ぶか喜ばないかは別にして行うべきを行い、いうべきを言うのが仏道というものではないのだろうか?
故に人を喜ばして自らを喜ぶはあまり採用できない。
金剛寿命陀羅尼経を調べるうち二つあることがわかりました。
同名異訳というより内容的にはまったく別な経典ですね。
一つは日本でもよく知られている金剛智三蔵訳。
もうひとつは大廣智三蔵つまり不空三蔵訳。
後者には例の降三世明王が傲慢な大自在天とその后を踏み殺し。大日如来が普賢延命の姿を現して蘇生せしめた話があります。
こちらには経典中に普賢延命菩薩の「バサラユセイソワカ」もしっかり出てきます。
いわゆる延命法の儀軌に相当します。
一方金剛智訳はいわゆる日本でよく知られた金剛寿命陀羅尼経です。この経典には普賢延命の姿や真言はなく、一切如来が異口同音に金剛寿命陀を唱え、執金剛菩薩や四天王も各自の延命陀羅尼を解きます。
ややこしいですね。