ものの本に歓喜天の歓喜は人を喜ばせて、それをもって自分も喜ぶということで歓喜なのだという話がある。
そういう解釈もあるかも知れない。
だが私の解釈は別だ。
喜ぶ一人は自分であることは変わりないが、もう一つの喜びは人様ではなく聖天尊の喜びだ。
天尊が喜ぶか?否か?を常にアンテナ貼っておくのが聖天信仰。
尊天の嫌いそうなことは自然とさけるようになるが、それがまず安全第一の御加護であります。天尊に間違いはない。
人を喜ばせて自分が喜ぶというのは素晴らしいようだが実は違うだろう。
良かれと思ってもさして喜ばれぬこともある。拒否されたりもする。
人によっては不平等な特別待遇や贔屓を喜ぶ人もいる。
正しいことを喜ぶとは限らないのが人間なのだ。
そして人を喜ばすのはなかなか大変だ。
故にそれ自体にそんなに大事な意味はないだろう。
そもそも人が喜ぶか喜ばないかは別にして行うべきを行い、いうべきを言うのが仏道というものではないのだろうか?
故に人を喜ばして自らを喜ぶはあまり採用できない。