金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

秘仏

こんな話を聞いたことがある。あるお寺にいわゆる「秘仏」があって何人も絶対に扉をあけてはダメという。

もしも開けたら目が見えなくなるという言い伝えさえあった。

 

ある乱暴な男が「そんなバカな迷信があってたまるか!」とわざと強引に開け放った。

「何ということだ‼」

うろたえ騒ぐ檀信徒の前で「どうだ。お前ら!目など見えなくならないだろうが!」と豪語した。

 

だが、やはり恐ろしいことにに、この男、三日ほどして俄かに目先がおぼつかなくなり、ついに全く見えなくなってしまったという。

 

寺ではますます大騒ぎ。

 

そんな中で日頃よく出入りしている掃除婦さんが寺にやってきてこの騒ぎも見て「皆さん。いったいどうなさいましたか?」と不思議そうに尋ねた。

 

それで、ことのしだいを話すと

彼女は「え、それってあの厨子ですか?」と指さして大いに驚いた。

 

「あれなら時々開けて拭き掃除してたんですけど・・・まずかったですかね。」

「‼」

辱めんとする心が光を奪った。

 

その後くだんの男の目がどうなったかは知らない。

 

 

 

 

 

どこも娑婆

むかし東京のある真言宗の大徳がいらした。

法力もしっかりとした方で多くの方の病苦をお加持で救済した。

それだけに法を大事に扱われ熱心な信徒さんには護身法を授けるのにも懺悔文を誦しながらの10000辺の五体投地の礼拝を課した。

でも、熱心なご信徒が多く、そんな難行もやり終えてなおも得度までも望まれる人もいたらしい。

詳しくは理由は憶えていないが、その方はいわゆる「娑婆につくづく嫌気がさした」という理由だったのだろうと思う。

 

大徳はその人にしずかに言われたそうです。

「あなたね、どこも娑婆ですよ。」

人を見る

自分ってこうなんです!とかこういうこともできちゃうんです!などなど

自己アピールが激しい人がいますね。

そういう人に合うと、へえ、なかなか自己アピールがすごいね、とは思うが・・・

中身がすごいね!とは必ずしも思わない。

でも「私ってすごいでしょ」と言いたいんだね、この人間は。というのだけはわかる。

まあ、悪い事とまでは言わないけどね。今はそういうのがはやりなんでしょうね。

だからご期待通り、定型文で「すごい方ですね!あなたって」とは言っておく。

同時に謙虚さとかはあんまりない人だねというアピールにもなっているのを意識できているのかな?

同じように入門希望先に行って「密教ってすごいですねえ。ああですね。こうなんですね。」とまくしたてる。蘊蓄を逆さになるまで傾けてしゃべりまくるのも同じ。

目から鼻に抜けてるようだが、場合によっては「いやあ、あんた、私より詳しいわあ。いやいやもう教えることなんか何にもないよ。」と上手に言われて返されてしまう。

 

人間を見る力のある人というのはまずもって言葉をそのままに人は判断はしないものだ。

アピール攻勢をかければ相手がそのまま見聞きしてくれると思う者は人生修行が不足しているのではないかと思ってしまう。

謙虚は先がある人やノビシロある人ほどが一番大事にすべき徳目です。

「火だぞ、火だ。火だ。」

難病持ちの方の相談。それが相談のメインではないのですが・・・

その話になるや「火だぞ。火だ。火だ。」と霊狐さんが耳元で言う。

同時に火炎の燃え盛る情景が見える。

「ご先祖は火災に合いましたか?」ときいたら・・・

 

火事ではないが三代続けて火の事故でなくなっている方があるとのこと。

 

難病と直に関係はないかもしれませんがそういう不幸な死に方をされた方のご供養は大事なことですよと言っておいた。

近く破門殺も来る。

供養して苦しむ縁者を救い因縁をきれいにしておくのに越したことはない。

もしも難病に良い影響があればなおさらのことだ。

 

動物に学ぶ 3 今を生きる

動物というのは今を生きている。過去や未来には生きていない。

常に今だ。

常に過去や未来に心を泳がせながら生きている人間とは大きく違う。

人間でも過去、未来に余りにとらわれないようにという試みはある。

ビパッサナー瞑想がそれだ。

刹那滅。ただ刹那滅という考えで瞑想をしては今を生きることにならない。

生滅でhなくその間こそ生きる時間がある。

 

人間は過去に想い、そこから学んで未来をよりよく生きようと思う。

動物であっても学習ということがあるからそこは同じだ。

 

だが人間のように専ら未来のことを心配して不安に負けたり、絶えず過去のくよくよにひきずられてついに自殺したりはない。

それでは今がない。

いまを強く生きる。

だからこそ動物は逞しい。

 

 

築井古城の飯縄さまへ 准胝院さんのブログ

ryona.hatenadiary.jp

羽田談

飯縄様は戦国時代の流行仏。

上杉謙信公の信仰は有名だが、武田信玄も北条氏康も心寄せた。

戦略の上で飯縄様を祀れば霊狐が諜報をもたらすという信仰があったからかもしれない。

これは本来荼枳尼天の職域だが、それで飯縄・荼枳尼同体の思想が形成されたようです。

尊天の利益と人生の花 その2

尊天の利益を受けて人生の花を咲かせてみたい。

そう思うならどうしたらいいだろうか?

まず、花を咲かせるには、現実の植物同様に丹精だ。

これと決めた道での絶え間ない努力精進。

殊に密教ではお花には「六波羅蜜」の内「忍辱波羅蜜」と言って風雪に耐える花の強さをそこによせる。

いかに刻苦努力していても途中で腹を立ててやめてしまえばそれまでである。

これと決めたらやめぬこと。なんとしても辞めない。

人間どんな天職であっても「ああ、もう無理だ。やめてしまおう。」と思うことは必ずある。

絶対あるが、そんな時に理屈をあれこれつけてやめないことだ。

 

そうして尊天を信じながらその道を歩んでいけば、時間はかかるがきっと花は咲きます。

その道はぬかって泥んこになることもあれば、転んですりむくこともあろうが、必ず花は咲く。

それが尊天の利益だ。

「なあんだ。そんなの普通じゃないか。祈ればあっという間にすごいことが叶うんじゃないのか?」というなかれ。

土台がなく夢幻のように得た大きな御利益があったにせよ。それは驕りや増上慢を生むだけでしまいには夢幻のように消えてしまう。

ひたすら土台を培う。土台なくして真のご利益はない

そうあってこそ人生の意味も分かるのではないだろうか。