毎日大量に世界で人が亡くなる。
かって世界規模で同じ理由でこれだけ人が亡くなっているという経験は私は初めて。
いやでも死について考えないわけにいかない。
チベット仏教ではチュウにしてもポアにしても死を仮想経験する修行が多い。
臨死体験の予行演習みたいなヤツ。
死を身近に感じるのは実は仏教では比較的ポピュラーな修行です。
野原で死んだ美女の死体が腐って風化するまでを瞑想したりもする。
不動明王も死人の衣に描かれるよう指示した儀軌がある。
死体の上にまたがって真言唱えるようにとかも書いてある。
不動尊は本来屍林の仏としての色が濃い。
屍林はお墓というより死体を放り込む林のようなところです。
日本だと地方によってはお不動様を神様的に考えてお参りを忌中は遠慮するとか言うけどね。
お不動は初七日の本尊だし、実は人が亡くなって最初に付き合ってくれる仏様なのですね。だから死の時こそお不動様です。
修験道にはいまわの際の不動断末魔の大事というのもある。
そもそも明王の多くはドクロを身に飾り、死のイメージが濃厚。
お不動様だって本当はそうなんだと思う。
不動明王に親しむことは死に親しむということ。
死にしたしむこと生死を超えた仏法に親しむということ。
死に目をつむってはそこはわかんなくなる。
死は誰でも来ることなのにね。
だからお不動様に死を身近に感じてお参りすること。
死の仏としての不動明王に向かい合う。
たまにはしてみたらどうだろうか?
死を忌むばかりではいけないと思います。
死と仲良くなれるような気がするかも。