今日来た人がちょっと悩んでいるようでした。
でも言わないから悩みの内容は具体的にしりません。
いいたくないこといわなくてよい、別にききたくはない。
自分が人の悩みにいつもこたえられると思うほど傲慢ではない。
相談といっても話ししてるうち、ヒントでも出てくれば言いよね程度ですから。
私のレベルはその程度。
なんとなく感じるのは自分が誠意をもってしてきたことが思いのほかよく思われていない(らしいのですが・・・)
人に良くしてあげたと思っても相手が思っているところは別かもしれない。
だから人のために良くするというのはとっても難しい。
感謝されるどころか怒らせたりもする。
がっかりもさせられる。そういう経験は私もいっぱいあります。
たとえて言えば、これは喜ぶぞ!と思って探し回ってやっと見つけて、人様にプレゼントしたものが翌朝ゴミ箱にほうりこんであるのを見るような気持ちかな(笑)
そんなのはいっぱいある。
悲しいよね。
でもそれ怒れませんよね。
それが実は自分の思い込みだったというなによりの証明だから
だから基本的かつ具体的に頼まれないことは動かない。
聖天様も天部なのでそういうところは強烈にあるんですね。
せっかく助けてやったのに感謝しないんだな。そんならもういいわ!
とさっと手を引いてしまいます。
でもそういった感謝も人として必要なのでだからこそ聖天さまは千年以上も天部でいるんです。
とっくに菩薩なんですけどね。ほんとは。
菩薩様ばかりだとみなさん甘えてしまうから。
でもまあ、神様はともかく人間として考えれば菩薩道の方が実際は楽です。
どう楽なのかと言えば、相手の喜びや感謝を期待しなければがっかりすることもない。
そこは聖天様は他人を喜ばし、それを見て喜ぶというサプライズ大好きな神さまですから反応が気になる。
菩薩道はそれはない。見返りは関係ない。
そういうのじゃなく自分がしてあげたいからするに徹する。
逆にしてあげたくないならしないの?
そうです。
私はしたくなければ一切しません。
ただし、した方が自分自身を納得できることはいたします。自分の為に、
何か特別なことをする場合も自分で必要だと思うからするだけ。
自分で納得できないことは頼まれてもしません。
した以上は自分の責任になるのだから当然です。
言い訳は通用しない。
自分のためにするのだから、たいして相手が喜ばなくても。ましてや礼を言わなくてもどうでもかまわない。
どうでもいい。
たとえば、路に堕ちて弱っている傷ついた鳥を持って帰って手当てしてあげて、餌あげて・・・そうやってお世話の末に野生に返すまでしても多分鳥は感謝しないでしょ。さっさと飛んで逃げていく。
ただ鳥が森に帰っていく姿がうれしいだけ。
そう思えないなら鳥の手当なんかしないことですね。
私の菩薩道はそんなもん。