きのう飯縄山へのお参りでお弟子さんに話をしたこと。
用意した六器の樒の葉が半分ちぎれていたことから夕食時にこんな話をしました。
神仏の供具は丁寧に用意さればならないということ。
機械的にしてはならない。
そこにあくまで生きた存在につかえるという気持ちが大事です。
その気持ちを人にも、生き物にも振り向ける。
うちは鳥や動物がいて、来れば修行としてお弟子さんはその世話をしてもらいます。
生き物を扱う心をやしなってほしいからです。
それなのに命ある鳥獣対しても機械的にやっている人がいる。
それでは形はできていても意味ない。
丁寧に相手をみてしなくてはいけません。
神仏も 人も 動物も
みな同じ。
そうでないとご祈祷はできない。
命のない木材や金物の仏像に命を見出す。
生き物として拝む。
そうでないと祈祷はできない。
機械的作業じゃないからね。