色々な局面でトラブルの原因になる人。
この人さえいないならという存在。
いなくなれ~。消えてなくなれ~‼
それで縁切りだの、怨敵退散だの、調伏してほしいというのでしょけど・・・・得てしてそんなこといくらしてもなかなかうまくいかないことがある。
それもそのはずです。実はそういうどうにもならない悩みの種なる人って多くは実は自分の業の姿なんですね。
だからそう簡単に縁が切れない存在だったりする。
自分の一部なんです。その人も。
じゃあどうする?
だから自分の一部だと思ってその人の仏性を拝む。
これは実は大慈悲の鎧を着ることになる。
それができていれば色々相手はやらかして来るが実害はさほどないものです。
「こんな奴!」と思えば仏性拝むなんて絶対に嫌だねと思うだろうけど、そういうなかれ。
実はそれは自分の仏性を拝むことと一つです。
どうしても嫌なら自分の仏性拝むのでもいい。
いずれにしても自らの業の影に相対して境涯が進まないなら怨敵は怨敵のままだ。
でもひとの仏性を拝めば自分の仏性も現れる。
こちらが仏になってこそ相手の仏も出てくる。
法華経方便品第二のいう「今し、仏と仏のみいまし処方の実相を究侭せり」というのはこういうことでしょう。
考えてみれば怨敵という固定された存在は本来ない。
恨みつらみが尽きればどのような人であれもう怨敵ではないはずです。
怨敵のレッテルを張り続けることで逆に怨敵は居続けることになる。