観音和讃に「33に身を分けて19の説法有難く」とあるように観世音菩薩は色々な姿に変化して我々の前に現れる。
「観世音菩薩普門品」にくわしくある。
これは観音行者は「目前の人のなかに観音を観ろ」ということだろう。
「観音の変化」とは別にそういうものが出現するのを待たずにそういうことだ。
善き人ばかりでなく鬼のような相手にも見ろという。
さすれば「時に悉くあえて害をなさず」という。
あるいは呪詛なども「還って本人に着かん」という。
呪いは悪念の縁に随う。当方に悪念なくば発信元に還っていくのみであろう。
故に観音に呪いよ帰れと祈らずともそうなる。
「害を加えるな」とか「呪いよ帰れ」という祈りではなく、ただ仏性を見出す心に悪念は馴染めないのであろう。
「念彼観音力」とはそういうことと思う。
故に私は「かの観音の力を念じる」でなく「かの観音を念じる力」と呼んでいる。
日蓮上人なども数々迫害にあったが、彼をよく思わぬ鎌倉幕府や念仏信者を怨敵として呪詛を行ったとは聞かない。そは真に法華経の行者というべきだ。
逆にいえばこの普門品は同じ法華経にある「常不軽菩薩品」の話と裏・表だ。
常不軽菩薩は遭う人ごとに「あなたは仏です」と手を合わせた。
変な奴だと石や瓦欠けなどを投げれば、菩薩は逃げて遠くから拝んだとある。
常不軽菩薩は観音を拝む行をしたのと同じだ。