身に余る本尊を迎えることを俗に「負ける」という
諸尊は皆衆生無辺誓願度というから何様でも皆、衆生摂取の御誓いは明らかであるけど
おのが為のみに祀って良いものとそうでないものがある。
この世の願望に強烈な験力を持つものほどそうだ。
古来聖天尊などを祀るなというのもそれだ。
誓願を頼むことはだれでもできる。
それは優れたリーダーに相談に行くようなものだ。
だがその人を家に迎えるとなると全く違う。
誓願が強く広いほど、このようなところにはいたくないという本尊もある。
密教独自の尊はそれに見合う行がなくてはいけない。
寺の様に多くの人の祈りが寄せられるところは違う。
聖天尊などの天部はその典型だ。
江戸時代以前には身分の高い人には護持僧がいて常に祈らしめたのでかなりこわい本尊も祀る人はいた。戦前まではは富豪などにはまだそういう人はいた。
自宅で僧を呼んで修法してもらった。
ある寺で昔はそうしていたが、住職の代も変わりそれができなくなった。
住職を呼んでも来てくれないのでおもしろくない。
住職罷免まで画策したが失敗した。
いよいよ老境に到って廃棄すべく壇具ごと、一方的にその寺に持ち込んだ。
のちに住職とケンカしてそのまま本尊だけとりかえしてよその寺に納めたにったが納めた直後、発作で亡くなった。
怒りのあまり玄関で三度たたきに本尊を取り落とした。
傲慢が呼んだ悲劇だ。