むかし、真言宗の六大新報のの主幹だった今井幹雄先生が六甲山真言宗の越智猊下から「何尊であれ、お働き頂くのには10年は拝まんといけません。」といわれたという。
実際、ポチポチ拝んでいたら何十年も信仰してやっとコンタクトとれる仏もある。
それでもある日すらすらと感応しだす。
そうなると真言も俄然効力を発揮します。
そういうやったら気の長い面が密教にはあります。
私もやっと昨日今日やっと分かるようになった仏さまもある。
それはやはり拝んできた積み重ねもあるがある意味、時期と言うものかもしれません。
だから○○尊が良さげだから○○尊を本尊にした行者になりたいとかいうだけではうまく運ぶかどうかわかりません。
例えば、いま私のところの新しいお弟子さんたちは何尊を祀りたいの、何を本尊にしたいとかとよく話しているが聞いてそう思う。
幸い彼らが本尊にしたいのは蓮華部の諸尊であるから比較的安心。
それでも尊によっては何年かかるか。何十年かかるかわからないものもありますね。
十一面観音などは在家で拝んでいるのと行者として拝むのではがらりと違う。
信者として拝むなら衆生無辺誓願度があるから、どんな尊でも助けてくれる。
聖天様などもそうだ。信者として拝めば御利益は大きく早い。
だから人気がある。
だが行者(化他行をするもの)として相対するには聖天尊などもほとんど縁のものだと思う。
行者としては御利益がよさそうだからだれでも祀れるというのものではないのです。
福徳の天にしてもいろいろあるのはそういうことでしょう。
大寺院などには聖天像は少なからず奉安されているが、それは多くの僧の中から相応の者が供養に当たれるからいい。
それでも実際拝める者がいなくなると只奉安しているだけとなる。
そういうご縁を少しでも縮めるために千座供養法を拝むという方法があるのだと思う。
どんな仏に縁があるのかは拝んでみないと何とも言えない。そういうことはある。
難しい仏とはそういう尊だろうと思います。
そういう意味ではお不動様は見た目は怖いけど比較的とっつきやすい方です。
初行の行者も相手にしてくれますから・・・
行者ならそのへんはまず仏からの縁を感じ取り、縁を感じる仏を拝んでみて決めるものだ。
でないなら千遍でもに二千遍でも拝んで口説き落とすかでしょう。