在家出身で祈願道場をやる
それで何を本尊にしたいか?密教には多くの仏がある。
真実を言えばあれがいい、これが祀りたいなどとあれやこれやと悩むのは在家根性の最たるものだ。
少なくとも本尊は頭で選ぶものでhない。
理想的には本尊がこちらを選ぶのが本当だ。
ある仏に縁ずくまで精進することが大事だ。
僧侶であれば赴任した寺の本尊とどうでも二人三脚で行かないといけない。
イヤも応もない。
自分の好みでで別な本尊に替えるなど罰当たりの最たるものだ。
何故ならよんでいただいたのは自分の方なのだ。
そこ考えるとどうも在家出の人はみんなその辺は甘いなと思う。
自行で自分が拝みたいだけなら何尊でも祀ればいいと思う。
だが、祈願となるとチームを組んでくれるかどうかは本尊本位だ。
因みに同じく在家出のわたしであるが聖天行者になりたいとか言う気はなかった。
私の師匠も不動行者で行きたかったようだ。
亡くなる15年ほど前に初めて不動尊の護摩堂を建立した。長年聖天尊に尽くしたご褒美のようなものだったかと思う。
師と同じく私も聖天行者になりたいわけでは無かった。
私は今は聖天尊は宿業によってであったご本尊だと心から思う。
そこに限りない有り難さがある。