あるお寺の話。
住職がいつのころからか目を病みだした。
懇意にしている祈祷の達者な宗門の僧侶にその相談をしたら、この寺で人気の水子供養に原因があるのではないかという話に行き着いたという。
歴史もあるお寺なので世間的に信用もあり、供養を始めたら非常に多数集まるのだが、肝心の住職の供養がおいついていない。
別に供養を怠けているとかではないが、特に人口流産の水子は一種の胎内地縛霊のようなもので通り一般の供養ではうまく成仏させられないこともある。
この寺などは住職にそうしたそういう不成仏霊供養の心得がないだけで住職も真面目な人だ。
だが、そうではなく、一時期は水子ブームに便乗して人々の不安をあおり、「諸悪の根源は水子をなおざりにしたたたりである。」と宣伝して大規模な水子供養施設と化した寺も多い。甚だしきにはもともと僧侶でもないのににわかにそういうことで儲けようとする連中もいる。
そういう挙句は一時は儲けても大概そのあと経営破綻したり、寺院が売りに出るなどの不祥事となる。
もちろん、水子を供養はしないよりはするべきだ。
要は供養すればいいのだが、金儲けにしか関心がなく、それに見合う供養をしないからそうなる。
経営破綻したある寺院など、水子供養を頼んだ方が泊まり込みで連日水子の回向所にお参りに行ったが拝んだ気配はゼロだったという。線香の一本すら上がった様子もない。
要するに供養料を集めるだけで拝まない。
亡者を馬鹿にし施主をコケにして、これで無事に済むわけはない。
話は戻るが、それでその供養本尊の地蔵尊を年に一度に件の祈禱僧がきて拝んでもらうことになった。
案の定、拝むほどに住職の病状はよくなっていったそうである。
かくして時が流れた。
やがて、その住職が亡くなったと聞き、祈祷僧が焼香に訪ねていくと、もう知らない人間が出てきてまるで門前払いであった。
前住職からの因縁を話したが「もうこれからはそのような御用はないので結構です。」といわれるのみだったらしい。
そうしてまたもとの…というより前にもまして供養はなおざりになったと見えて・・・・ついにその寺は火を出して焼けてしまったという。
これは一つには拝まないことにより地蔵尊が機能しなくなったためではないかとその祈祷僧は語ったという。
歴史もある大慈大悲の地蔵様が安置されていれば自然と解決しそうなものだと思う人もいるだろう。
だが勘違いしてはいけない。
地蔵尊は拝むから地蔵尊なのだ。
拝まなければただの偶像でしかない。石や木の彫り物でしかない。
ただの偶像ならまだいい。
そこによせられる期待や気持ちだけが空回りして集積していく。
それが病となり寺を焼くことにもなりかねない。
これは仏像というものの性格をよく語っている。
仏像をまつりたいといってよく持ってくるが果してそれに見合うだけの供養ができるのか?
だから依頼主が僧侶でもなければ一切外部の人の仏像開眼はしない。
在家の場合は年に一回祈願に持ってきなさいと言っているがそれも忘れてそのままになっている人もいる。
ましてやうちに本尊が来たのだからもう寺へはそうそう足を運ばなくていいなどというのはとんでもない勘違いである。
自分が僧侶でありちゃんと供養できるならまだしも。在家ならよけいに寺に足を運ばないといけないくらいだ。これは怖いことだ。
この寺の二の舞にならぬよう心していただきたい。
拝まないなら仏像など祀らぬことだ。