最近気づいたこと。
祈願の中での投影。
人の問題に自分お問題を重ね合わせて力んだりすること。
たとえば自分が手を焼いている問題に遭遇すると他人事でも力が入る。
同情的でいいようだけど、それは時々本尊に先行して突っ走る。
なんとしても解決してあげたいという「焦りの祈り」になる。
自分がやるわけじゃないのにね。
そう言う気持ちの祈願はどんなに躍起になっても結局うまくいかない。
本尊から「私を無視するならお前が勝手にやってろ」と言われてしまう感じだと思います。
どこまでも平等に祈願に接すべきなのにね。
時々何度でも断った祈願を頼んで窮状を訴えてくる人もいる。
例えば霊障で苦しいとか。
そういうのってそこまで言うならで状にほだされ腰上げても絶対うまくはいかない。
本尊と私の約束事があるので。
でも、本当に急がなきゃいけないことや、許せないと思うことは本尊から動くからわかる。
本尊のお気持ちを体現する器になる。そうでないといけない。
感応道交とはそういうことなはずです。
それなのに逆に自分の気持ちを本尊に反映して実行させようとするのは本末転倒だ。
きのう65歳になってやっとこの学び
つくづく修行が足りません。合掌。