飯縄山への道中。
車の中でお弟子に色々きかれること。
そのなかでもあの世のこと。
私もわからないこと。死んでいないから分かりっこない。
話を聞きながらどうだろう?と思っていると霊狐さんが語ってくれる。
今日は気前がいいな。
宗教にもよるが信仰のあるなしでずいぶん死後は違うらしい。
長い間夢遊病患者のように方々ほっつき歩くようだ。
それで自分の体や思考に強く惹かれる。
そこを求めてさまよう。
もう肉体はないのにね。
同じ一族の中でも無関心な人。信仰熱心な人で行く末は大きく分かれる。
それはやむを得ない。
いわゆる善人でも成仏しない人もたくさんいる。
これはカルマの問題ではなく、見惑、思惑のちがいだ。
思惑はいわゆる煩悩である。その作用以上に大きいのは見惑だ。
つまりその人の世界観。内証の門題は何をしたかより大きい。
人間死んだら全部、なくなると思っていればそれは残念な見惑とというものだ。
だから、信仰はときとして薄徳の人でも徳の代用にもなる。
はた迷惑な乱行の人でも最後に信仰を本当の意味で持てれば幸いだ。
品行方正で善良でもガチガチの唯物論の人は死んでも自分の立ち位置がわからない。
これは不平等なようだが、要は衆生の境涯は見惑による。
そしてそれ以前の仏縁の問題もある。
徳が薄くてもそれを自覚して神仏に懺悔できれば幸いだ。
ここでいう信仰とは別に明確な宗教的観念ではない。
神仏は我々を護念してくれるありがたい存在だということ
我々は死んで終わりではないということ
私の認識も突き詰めればその域でしかない。
その意味でも愚痴薄徳な私は信仰に恵まれて幸せだと思う。