霊の障りがあるという人やとりつかれるという人。
昔の人は割合町の祈願処や寺社にいいてっとってもらうのは比較的たやすい事だったと思う。
今はなかなか難しい。
何故かというと昔の人の心にはは基本的に神仏に対するザックリとした信仰があったからだ。
人の心には家がある。
ようするにそこの住人こその信頼と安心の存在だ。
いいかえれば昔は皆、ザックリと神仏が住んでいたわけだ。
だんだん教育が進んで、信仰の方は別に研鑽もしないからあいまいのままで、やがて神仏などいないとか迷信だとかいうように思ってその家はいつのまにか空き家になる。
そして時にはなにかのきっかけに安心に替わって心の家には不安や恐れが住み着く。
それ自体は霊障ではないが霊障の下地になるのだ。
だから心に安心を与える信仰は大事なのだと思う。
ザックリはザックリでも本人がよければそれでいいのだが今の現代人は理屈で納得しないと難しい。素朴で素直な信仰は得難い。
ゆえに容易に霊は落ちない。
落ちてもまた呼び込む。
祟りや障りは不安や恐れに誘引される。それがアンカーだ。
多く意の人の場合は不安や恐怖、罪悪感の人格化が霊障だ。
そうした霊障は本当は自分の心がけん引しているのだ。
そうしたものを呼び込みやすい心の性質を俗に「霊障体質」とか言っているわけだ。
そうした不安や恐れが極度に達すると人は精神が崩壊する。
もう崩壊してしまってはもう精神病院にいくしかない。
安心のすむべき家がもう潰れてしまっている。
形の上で信仰させてみても神仏の住む家がもうない。
安心がこころの家に住む人に霊障はない。
拙寺は信仰しないと霊障は扱わないというのはそういうことだ。
淋しい心の家は修繕して信仰する神仏に住んでもらう。
宗教的解決に求めるべきはそういうこと以外ない。
行者の霊的パワーや気の力で追い払うなどというのは仏教にはない。
少なくとも私にはそういう力は全くない。
できるのはこころに神仏の家を作る手伝いだけだ。
それでいいなら相談にのろう。
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