本当の信仰はジタバタしないで神仏に任せる。
そういう安心の信仰。それは覚悟の信仰でもある。
もちろん、それには時間がかかる。
はじめからそうはならない。
だが、今は全然そうでなくてもそうありたいと願う人だけがたどりつく境涯だ。
だがそうならねば本当の意味の信仰ではない。
生きていればいろいろなことが起こる。
それは当たり前だ。
そうした苦しみ自体がなくなることはない。
どこにいようと苦の娑婆だ。
ただ心の平安は失わずにいることは可能だ。
それが信仰の無上の価値だ。
信じるとは神仏の存在を信じるとか、信じないというようなレベルのことではない。
そこが信じられないなら信じないが良い。
信じないから罰する神仏などない。
無理に信じる必要はまったくない。
ひたすら教団のために人を引っ張ってくるとか、献金するとかが宗教行為ではない。
そういうことだけに価値を措いて終始する信仰の意味はゼロではなくマイナスだ。
そんなことをしても神仏は喜ばない。
こころの中央にドカンと神仏の居場所がある。
そのことだけが価値である。
それがないなら何もないのだ。
当然安心もない。
いくら長く信仰しても安心がないならそれは信仰になっていない。
いくら信仰しても形だけのこと。
意味は何もない。絵空事だ。