親鸞聖人は、念仏に決定的な秘事口伝があると誤解して関東から彼のもとに押し寄せた人々に
「念仏が真に往生の道かそうでないのかは知らない。私においては師である法然上人を信じて念仏を頼みにするのみ。
たとえ法然上人に随うことが間違いで地獄に落ちても後悔はない。念仏以外に他の行など及ばぬ私にはもともと地獄は行くべきところなのだとさえ思っている。この上は念仏をとろうと捨てようと各人の思われるようになさるがいい。」といわれた。
大方の人は誰であれ念仏することがたやすいので易行道だと思っているがそれが違う。
私は今の真宗さんがどう言おうがこれこそが親鸞さんのいう易行道の真骨頂と思っている。
大変な学僧だった親鸞上人はついに学問的なアプローチや方法論追及を辞めてしまって
阿弥陀仏の本願に帰依するということのみを選ばれたのだ。
いわば比較検討で選びだしたのではなく、現実に仏道を歩んで消去法で残ったのが念仏だったのだと思う。
よく宗教では「信仰が足らないから駄目なのだ」などとよく言われるが、親鸞上人においてさえ「念仏」を絶対に往生すると信じてはいない。
そういう言い方なら信仰の足りている人などいない。
私も含めて。
私的には信仰が足らないことなど当然としてそれをとることが「易行道」だと思う。
そこは三昧発得して極楽のありさまを垣間見た霊覚者の善導大師などとは違うのだろう。
だが大概の人はそんなものだ。
信仰とは無暗に信じ込もうとすることではない。それは愚痴の道でしかない。
そんなことできない。
「信じる」と言うのは結果であって決して能動的行動ではない。
信じられると思うだけだ。
親鸞上人の態度に見る「この信仰が正しいか否かなど知らない。ただ私にはこの神仏しかないのだから、これを信じていくのだ。」と言う覚悟が本当の信仰だと思う。
そこに少しの無理もない。
だから、たとえば「この教えこそが絶対に真理だから信じなさい」などと言って布教してくるシロウトなど片腹痛い。
そんなのは自分の「信じたいというお思い込み」を押し付けてるだけだ。
何も知りはしない。
そんなのこの人が知ってるのか?と思うと笑ってしまう。
「それは私は違うと感じます。」というと
「じゃあ、聞きますが正しい教えは何ですか?真理とは何ですか?言ってみてください。」
などと居丈高に言ってくるが
「知りませんね。わかりません。」が私の答えだ。
他に答えなどない。
かといってあなたが言ってるのが本当とは思わない。
たとえ、正解はわからなくても間違っているのは容易に分ることもあるものだ。
「念仏こそが絶対!」などと押し付けてくるものは到底、親鸞の教えを理解しているもんじゃないね。異安心の最たるものだ。
私においても「観音菩薩を信じて拝んでいくのみ、たとえそれが間違いで観音菩薩にすかされて地獄に堕ちてもいささかも後悔はない。他に私には依怙となるものなど何もないのだから。」
私においても観音信仰は縁によってえらばれた信仰だと思っている。
親鸞さんの言う弥陀から頂いた念仏と同じ。
観音様から頂いた信仰だ。
外には何もない。
この上は各人が観音信仰しようがしまいが私の知ったことではない。