他宗のものが言うべきことでもないですが・・・夕べ 講員でかつ真宗の檀徒さんから質問あって、親鸞さんについて私の拙い考えをちょっといいます。
歎異抄 第二章からの言葉です。この書はお弟子の唯円さんが親鸞さんのそばにいて
「異安心」を嘆いているのを書いたという。
つまり「これは親鸞さんの考えと違うよ」と門徒宗に警戒した書です。
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべすと、
よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細(しさい)なきなり。
念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。
総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまゐらせて、
念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。
そのゆゑは、自余の行はげみて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄におちて候はばこそ、
すかされたてまつりといふ後悔も候はめ。
いづれの行もおよびがたき身となれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。」
不肖の子 善鸞さんが念仏には秘密法門があると言いふらし、それにのせられた信者が親鸞さんのもとに訪れた時の言葉。
「念仏にはそんな物はない。私は法然さんの教えをただ信じてして念仏しているだけ。もとより何の行やっても駄目なんだから地獄に落ちてもやむなしの覚悟でしてる。」
この言葉こそ親鸞さんの全生命であり悟りだと思います。
ハッキリ言って今の真宗のお坊さんのいっている事とかみ合わないように思う。
まあ、真宗の教学を勉強したわけじゃないし頭良くないから、門外漢の感想に過ぎませんが・・・
「もともと法蔵比丘の誓願なって彼が阿弥陀仏になったんだから、みな本来すでに往生しているんだから真宗の念仏は感謝の念仏だ。」などとは言われていない。
ここにはあくまで「極楽往生の手立て」としての念仏が語られている。
親鸞さんは法蔵比丘の誓願は重く見られてはいますが・・・少なくともここでは「すでにアンタら往生してるのに、何まよっとる!?」とは言っていない
「念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。」と言われている。
つまり往生の手段としての念仏がかたられている。今の真宗の教えと親鸞さんの教えはちょっと違うと思う。
以前あるい教科書で親鸞さんの思想は浄土宗の法然さんの思想をさらに進歩させたものみたいな書き方して浄土宗からクレームが出たと聞くけど本当だよね。
当たり前だわ。教科書は真宗の布教書じゃない。
それじゃ浄土宗は真宗に劣るみたいに聞こえる。
どこのバカが書いたんだろ。
親鸞さんの言葉は心に響くけど、申し訳ないが今の真宗の坊さんの御説法聞いてこころに響くことは私は何もないなあ。
「なにいってんだろ?」としか思わない。
悪いけど義理があってももう真宗の葬儀は行きたくない。
説法聞いていて矛盾感じるから。怒りさえ感じる。
それじゃ坊さんにも故人にも失礼だしね。
でも、私が死んで遺族はないからどさくさでもしも真宗さんで葬式するくらいならそのままは灰にしてどこかに捨ててもらった方がいいな。
宗祖と言ってること違うと感じるから迷いそうです。
親鸞さんは「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。」と結ぶ所なんて素敵だ。
私はお言葉に甘えて専修念仏は捨てるくちですが
押し付けがましくなんともなく。実に謙虚で教祖様的じゃないところがいいよね。
私もこの親鸞さんのお考えに私淑しています。
だから自分のやっていることが絶対だなんてまったく思っていない。
絶対だとするなら自分だけにとってはそうだけどね。だから自分は変えない。
だれも私は説得できません。
密教やってどうなろうと、地獄に行こうが、獣になろうが「念仏為本」に蔵替えなんてしない。
私も「地獄は一定すみかぞかしだ!」と思ってますから。
地獄行き直行便かも(笑)
そういう親鸞さんはとても魅力感じます。