人生には腹立たしいことに見舞われることが少なくない。
怒るというのは一番処理しにくい感情です。
だって自分がまちがっているという認識はないですから。
それ自体はさほどのことではなくても「くたばってしまえ!」などという強い感情にみまわれることだってある。後でよくよく考えたらそれ自体はそこまで怒ることかな?と自分でも不思議に思うことすらある。
でも実はこの怒りは根があるのです。
心理学では過去の体験が尾を引くとそこに「投影」と言って重ねてしまう傾向があります。
例えば秋葉原で17人の人を傷つけ殺してしまった加藤受刑者。死刑になりましたが、この人は派遣先での不都合が重なってその都度怒りを膨らませた。
ついには世の中が全部が敵だと思ったからあの事件を起こした。
何の合理性もないですが、これは人にありがちな間違った習性でのなせるところです。
心理学の世界で「投影」といいます。
概ね父母に起因する情報ですりこみになっているのだといいます。
例えば厳しいお父さんに「お前みたいなものはダメだ。役立たずだ。」と言われ続ければその嫌な体験は基盤になる。
そこに色々お父さんに言われたことと同じようなことと感じればその体験をを人生で拾って積んでいく。それで臨界点までくれば大爆発する。
加藤受刑者もそうです。
派遣社員の悲哀が重なった…というより重ねてしまったんですね。
でも根はもっと深い筈。
加藤受刑者はやったことは無辜の人まで殺したのですから許されないが気の毒といえば気の毒です。
でも私はそういう気の毒はやったことの減刑の理由にならないと思っている。
法律は社会の安全とその維持のためにあるのですから。
安倍元総理を射殺した山上容疑者も同じ、母への怒りが統一教会からさらに安倍さんにまで拡大して彼は殺人者になった。
これも気の毒といえばそうだが許されることではない。
こうした怒りは心理学では幼少期の体験が基盤といいます。
でも仏教はそうは言わない。
無始の罪業と言って、本来私たちは生き物として根に怒りを持っています。
怒りの感情自体は誰に教わったわけでもないでしょう。
教えなきゃ怒らないわけじゃない。
だからそういう「幼少期の云々」はアンカーでしかない。
無始の怒りの姿は密教では荒神さんに表されます。
だから荒神さんは怒っている。
理由なんかない。無始の怒りですから。
そういうものを我々も心の奥に持っている。
「原初の怒り」
荒神さんは私たちの原型、怒りの塊なんですね。
誰が良いとか悪いとかは措いて、まず怒りを除くことを仏教では大事だという。
そこに気づけば大忿怒の荒神様も「笑えば中台八葉の尊」と言ってそのまま仏になれる。
怒りは燎原の火のようなもの。
たとえ怒るべき理由はあっても放っておくと秋葉原の通り魔のようなことすらおきる。
それが怒り。感情ですからことの是とか非とかとは別です。
で懺悔文を唱えます。
我昔所造諸悪業 [がしゃくしょぞう しょあくごう]
皆由無始貪瞋痴 [かいゆむし とんじんち]
従身語意之所生 [じゅうしんごい ししょしょう]
一切我今皆懺悔 [いっさいがこん かいさんげ]
どっちがいいの悪いのは言わない。
そういう状況に陥っていること自体が懺悔すべきおのれの業報だからです。
他人は関係ない世界。自分の業の問題。
私が学生時代から出入りしていたお寺はこれを言いながら一万遍五体投地の礼拝したら護身法伝授をしていました。
そこまでしなくても腹が立ったら何回か実践してみたらいいでしょう。
仏の側に立ち返れます。