金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

祈りなき修行

「密教をどうしてもやりたい」という人に聞いてみた。

祈りで現実の難問に貢献できるなら是非やりたいということだった。

で質問してみた。

「ではなぜ祈って結果が出るのか?」

その人は心理的な力や技法を考えていたようだ。

だがそれでは違うのだと思う。

問題は神仏や本尊という言葉が出てこなかったことだ。

 

人間の心など如何に工夫してこねくり回してもたかが知れたものだ。

 

同じように滝に打たれる、山に登るという修行も修行とは言ってもただ頑張るだけならスポーツの修練と変わらない。

それが宗教上の修行である以上は修行も神仏への祈りによって完成しなければだめだと思う。

だから祈りのない修行は火が出るほど激しくとも行とは言わない。

それは心身鍛錬であろうが宗教でいう行ではないからだ。

そこに神仏を見出すことは不可能だ。

 

1000メートルもない山でも祈りがあってまいればそれも修行。

たとえ3000メートルに近い険阻な山でもそこに祈りなくばあくまで登山ということだ。

 

それがいかに大変かどうかなどは大した問題ではない。

 

たとえば「神仏は尊ぶが頼まず」と言った剣豪・宮本武蔵はどうだろう。

仏像を作り霊巖洞に籠り、天道と観世音の導きで「兵法五輪の書」を書き上げたという武蔵。

宗教的な行為はなくても私はやはり晩年の武蔵には形無き祈りがあったのだと思う。