信仰とは祈ることが目的でも、祈願が叶うことが目的でもない。
だが信仰を研鑽する道としての祈願はある。
祈ることによって自己を高める。
だから自己が高まらない祈りはやめる。
進化する祈りが必要だ。
それがそのまま仏道修行だ。
だから祈り自体を否定することを私はしない。
どんな小さな祈りにもあなたがそこに生きているのだ。
だからうちはどこまでも祈願の道場だ。
講員になっても祈願以上の修行はない
もしもそれが、人にも言えない恥ずかしい祈りならあなたはとりもなおさず恥ずかしい人なのだろう。
少なくなくもそういう部分があることは否定できない。
こともあろうに仏に祈ることが恥ずべきことを祈るならそういうほかはない。
そこに気が付き高めていく。
ギャテーギャテーハラギャーテー。皆に行きつく彼岸への祈りになっていく。
そこが修行だ。
だから祈りや現世利益も修行以外の何物でもない。
たとえ世にいう修養の道や武道、芸道も己れを磨く心がなければ一抹も修行にならない。
武道や芸道がそのまま修行なのではない。座禅や読経が修行なのではない。
何でも同じ事なのだと思う。