上級の信仰とは高い御祈願料を払う信仰ではない。
高い御祈願料を払って拝んでもらってもお札は拝まずどこかに立てかけてても合わさず顧みないのではそれはいくら祈願料を払おうが下級の信仰だ。
そこを考え違いしていればやがて運気が閉塞してダメになる。
本当のピンチを乗り切れない。
そういう時に慌てて御祈願料をあげて上のクラスを頼もうとする前にすべきことがあるのだ。
まだ講員制度のないころ。毎回「一番良い御祈祷で拝んでほしい」というが、その実、自分では拝まない。家でちゃんとお祭りもしない。
聞いたら家でお線香焚くの嫌だし、人がきて宗教してると思われるのが嫌だとか、あきれ返ってその日を限りに即座にやめていただいた。
「よそは皆、それでも祈願をしてくれましたよ!」と文句言うので「じゃあ余所にいけばいいですね。うちはそういうとこじゃないから無理だわ。」でおしまい。
そんな人間は相手にするのも嫌だ。
いかなるご祈祷、ただの転読加持すらも受ける資格はない。
いくらお金を使おうが来てもらいたくない。
ましてやそういう人には講員になってほしいとか信者になってほしいなどと全然思わない。
自分がまず神仏と真剣に向き合う。
そう言う信仰ができてないならどんなご祈祷をしても無駄だ。
そういうものだ。
そんな昔のお公家さんみたいな信仰では通用するもんか。
その時は必ず来る。
お金がないなら無理しないで逆にクラスを下げても一生懸命拝むほうが良い。
自分でもよく拝む。
そして最終的には仏道に随って利他の心を膨らませる。
それでこそ上級の信仰だ。
お金に任せて自分は信仰がない祈りは最も下品な信仰だ。
金に任せて呪術を買う。そのような行為は信仰と言えない。