金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

行者、世福の天を祈る意味

比叡山 無動寺などでは回峰阿闍梨は必ず毘沙門天、弁財天、大黒天などの施福の天尊を一尊、信仰するのだという話を聞いたことがある。

回峰阿闍梨と言えば千人回峰の大行満であり、常人の及ばぬ厳しい修行を積み重ね、我々のような世俗の欲願から離れた方々のように思うがこの話は大いにうなずける。

 

祈願の行者は本尊への供養とは別して常に護法天の加護をえるべく供養法をすべきだ。

その理由は祈祷行者とは福分を人に分かつ存在だからであると思う。

回峰行自体は自行だが満行すれば多くの期待を集めるのであるから、門外漢が言うのもおこがましいがそこは大事なのだと思う。

 

回峰行者はともかくなんであれ行者自身が干上がっているような福徳が欠乏した状態でどうして人に福を与えられようか。

祈願の行者は世福を目的とするものでないが、さりとて世福を否定するのでは話にならない。

だが、そうかといって福を与えたまえと世俗の人と変わりなく必死に世俗の福を祈るのに終始するのも宗教者らしからぬ話である。

 

行者は金が欲しい、モノが欲しいで天尊を祈るのではなく、日頃から施福の天を目的なく厚く供養し、自然と天の加護にまかせて精進するのが本来だと思う。

七福神の弁財天の神様の無料イラスト / イラストセンター