自称霊能者の信徒がいいたいほうだい言ってのさばっている寺は例外なく滅ぶ。
むかしは奥さんが巫女でお告げとって亭主が山伏や祈祷師で拝むというケースはよくあった。
夫婦ならいいだろう。お互い遠慮しないで気心もわかるから。
だが住職が霊能無いので霊能へのあこがれから、霊能者の信者頼り。特別扱いするのは最もダメだ。
指導どころか自分が指導されている。
ふりまわされて仏教の教えがかすんでしまう。
仏教の教えに霊能が無きゃだめはない。
しかも、そういう寺は無益なお告げをもとに同じところをぐるぐる回るだけでよくはならない。
霊能者を大勢集めて鑑定要員にしたたはいいがお互いが喧嘩はじめたケースもある。結局どちらの言うことを信じるかの綱引きで寺がもめる。
結果、寺は分裂して信徒の信頼を失う。
無益なことでバカバカしい限りだ。
若い頃からそういうの見てきた私としては一線引かせてもらっている。
長年の経験から霊能云々を言う人は近年修行に一番不適当だと考えるに至った。
霊能的な勘があると修行を勧める寺もあるが当院はそうでhない。
霊能者などめんどうのもとだ。
放っておけば寺に混乱を招く元凶にもなりかねない。
盛んに霊能があるとアピールしてくる人がいるが全て無視するか、度が過ぎればよそにいって頂くことにしている。
もちろん、霊能があること自体は悪くないだろう。不可抗力だし、なにも問題はない。
自分の分限を知っている人なら問題は何もないが、多くはそうではなく、認めてもらおうとアピールに熱心だ。
それでいて自分はまったくうまく生きられていない。
そんな人間が一体他人になにをどう言おうというのだ。笑わせるわ。
うちは賢い二番手やサブリーダーは欲しいところだが霊能者などは一切無用だ。
そんなものにカジ取りはまかせられない。
むかし立正佼成会の創設当時で庭野日敬師とコンビだった霊能者・長沼妙佼師はお告げをとる時一週間の水行をしてはじめてとったという。
テレビで霊能者の女性が出て行方不明のお宝を探すという話を見て「でないね」といったがその通りだったらしい。
「こういうのは神様の真似事するだけだ」とも言ったという。
私が思う本当の霊能は行に裏打ちされ、調えられあるいは開発されたものだけだ。
それは必ず人格の陶冶とともにある。
初めからあるのは霊障くらいだろう。