ここに言われるように「必ずしも定型の法義に依らなくてよい」という声を聞いてそれをやめるのは魔の所為である。
これに対することばは「如法」である。
しかるに初行のうちから仏の声だの神のお告げだのと言いはなって、「如法」に異を唱え。自分のやり方や我意を通すものは、到底修行の器でないというべきだ。
そういう魔行の自覚なき人を決して修行者に入れてはいけない。
和合僧を破る大逆徒となるからだ。
私の場合は寺の信徒にも入れない。百害あって一利なしの輩だ。
すてておけばそのような悪い習慣が腐ったミカンや疫病の様に周囲に悪影響を与える恐れさえある。
故に長年の経験から、そのようなことを誇るものは例外なく即座に門前払いである。
私は一片の霊感も無き者こそ修行に値するまことに上根の修行者と思っている。
仏道に学び、如法を尊び、勝れた霊感や霊覚があっても周囲に固く秘めて容易に口にしないものはそれ以上の稀少の器だがおいそれといるものではない。
日頃から見える聞こえると場所柄もわきまえずに連発するものは、場合によっては精神病に近く、仏道修行以前の精神衛生上の問題があるとみなす。