若いころ武術を修行した。
精神修養などというものでなく危機管理として修行した。それだけだ。
ほかに一切理由はない。
世間でいう修行といえばお茶もお花もそうだ。
だが実際そこに精神の修養にしようと思う心がなく行えば心の修行なぞになるものか。
私の武術修行と同じことだ。術の修行で心の修行ではない。
ただ何か事が起きても人に襲われて負けない、やられないことしか考えない。
まあ、それも実際、武術である以上一番大事だと思ってはいるが、目的は修養ではなかったわけです。
一万回、お経を読もうが、密教で護摩を千回焚こうが、何年間、霊山に登拝、あるいは滝に千日うたれても、何年参篭して瞑想しようがこれは同じこと。
そういうこと自体は修行の形式であって修行の本質ではない。
修行の心とはなにか?
「浄三業」、身口意の三業を浄めていくこと以外ない。
行いを正し、言葉正しく、心を常に浄めて貪瞋痴の曇りなし。
仏道においてはこのほかに何の修行もない。
逆にお経を読まず、座禅もせずでもできる。
密教などもこういうものは事相の修行をしても心の修行がなければ何も意味はない。
その意味では心を失えばなにもならないからそのぶん武術鍛錬にもはるかに劣る。
一休禅師が練行の滝行者に「なぜ水に入るのか」と尋ねたという。
行者は「滝の水によってこの身の不浄を浄めるのだ」という。
一休禅師は「人が水で清浄になるものなのか。ならば魚や亀の方がお主よりもはるかに清らかだろう。」
と笑ったとか。
方法論で貪瞋痴がなくなるわけがない。
大事なのは貪瞋痴を離れようとする心のエンジンだ。
密教もすべてここに納まる。顕教ももちろん同じだ。
だからその心がないなら仏道修行などという無駄なお遊びはサッサと辞めるべきだ。
すべて時間の無駄でしかない。
そんなことをするくらいなら心楽しませるために、旅行や観劇、物見遊山、食事会でもするか趣味の勉強、スポーツや読書でもした方がよほどよい。
そればかりか浄三業なき仏道修行は必ずその人を腐らせる。
ろくなことにならぬ。
魔修行となる。
愚痴の所業だからだ。
それは中身のないカラの財布を後生大事にしているのと少しも変わらない。