「ねばならない」というのはこだわりだという。
だからこだわりを去る。
だが真に理解していないとそれ自体が大きなこだわりになる。
それが油断すれば「こだわってがならない」というこだわりになる。
古来これを仏教では「空執」という。
空へのこだわり。
「空でなければならぬ!」というこだわりはいらない。
空は思わなくても思っても空だ。
空は理解するだけでいい。
理解していないからこそ、心にそう強く思うのだ。
空とわかればないものにこだわりようはないだろうよ。
「本来空である」と理解するところからあらゆる働きが出てくる。
密教でいえば「不可得」という言葉になる。
そうでない「こだわらない」という囚われは緩急自在、千変万化の自自な働きが失われる。
本当に必要なことのためにはこだわらない。
そういうことだと思う。
たとえば受験も育児も勤労もこだわらずどうでもいいというのはどうだろう。
無責任な邪見でしかない。
そういう人は無目的の言い換えに過ぎない。
ついには食い詰めて人の厄介になるだけだ。そういう人はいっぱい見てきた。
「自然にあるがままに」とか言うが自然界はすべて必死に生きている。
のんびりあるがママなどという生き物は虫一匹もいない。
太陽輝き花咲き乱れる草原にも壮絶な弱肉強食の戦いが展開されている。
バッタを狙うカマキリそれを狙う小鳥、小鳥を狙うのは蛇か、イタチか。
どんなけばげな可愛げな生き物も参加している戦いだ。
そこに容赦もなければ手心は少しもない。
生きるということは必至だ。必死ならおのずから真実は見えてきてよけいなことへのこだわりはなくなる。
それが本当のこだわらないということだ。
「こだわらない」ということにおいて私にはほかの理解はない。
だからいつもこだわらないなどという奴は思い切りダメだ。私は必要と思えば思い切りこだわっている。
聖天供のルールもきわめて厳格にしている。
だが行くべきところなく目的なく、ただこだわらないと言っているだけなのは無意味だろう。
どこへもいかない、どこへもいけないだけの話だ。
昔、一緒に四国遍路に行った人が師匠にあることでこだわらないことだと言われて以来「こだわるな」と言葉が好きで、口癖であった。
路銀がなくなっても「お金にこだわらない」「羽田君、そこはこだわっちゃだめだよ」となにかにつけ言い続けていたが・・・折から雨が続き、蓮日の野宿が体に応えて、つい音を上げて実家に送金を頼むことになった。
だが頼む前日に家は引っ越していた。
最後の数日は彼は本当に悲惨なことになった。
そこもこだわらばそれはそれで大したものだったと思っただろうが・・・。
何も不足も問題がない安全なところで「こだわらない」のならば誰でもできるだろう。
こだわないなら神仏が助けてくれる?そんな交換条件などない。