金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

子供の喧嘩

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辞職しろと言っていたんだから自分も辞職すべきではという話に当然なる。

この人は野党を幸いに責任あるもの良いはほとんどしてこなかったと思う。

だが、それはともかく「お前の政党は統一教会と関係したてじゃないか?」「お前だってそうだろ!」

こういうことの応酬が続いている。

今の政界はまるで子供の喧嘩だ。

問題はそんな枝葉末節ではない。

統一教会がどこまで政界に肉迫しているかの問題とその解決が国会の「課題」であり。そこは政党間の攻撃材料の利用に終始していては解決しない。

統一教会の思うつぼだ。

修行者の友とは

修行している人に向かってホントは「やせ我慢」してるんだけなんでしょう?

よこ棒入れる奴。こういう人は間違いなく己れを律することに失敗した意識があるんだね。

だから人も同じだと思いたい。そういう人だ。

修行者の友としてふさわしくない。

友とはことや志をトモにする人だ。

そんな人間は到底友と呼べない。

何年来の旧知でもそういう人とは修行者は関係を切るのがよいと思う。

私はそうしている。誰とでも笑って付き合う必要など毛頭ない。

 

ほかにも気に入らないことばかりねちねちと言われても苦笑いして付き合っている人いるけどそういう人間の気が知れない。

友が一人もいなくなってもそのようなものは一種の敵とみなし近寄らないのが一番だ。

ざまあみやがれ!

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ざまあみやがれ!いい気になって動物いじめて、恥とも思わず動画にまで流しているからそうなる!なんて下品な女だ。当然の報いだ。

コツメカワウソは子供のうちはすごく可愛いけど、おとなになると普通のオバはんの手にはおえない生き物なのだ。

フェレットなどとは力も運動量もけた違いに違う。あごも強く本気でかまれれば大怪我する。

でもこの人間に同情は一切しない。

後先考えずに飼うからだ。

今は輸入がないアライグマなども同じ類だ。

各地で被害がどうのというけど、本当の加害者は飼いきれずに放した奴だ。

阿があって吽がある

ああ、その方位行かないほうがいいのに…とか思っても絶対に余計なことは言わない。

「聞かれもしないことを言うなかれ。」

これがわが師の教だった。

祈願も同じ。「頼まれもしない祈りはしないもの」と教えられた。

施すときは施す。

布施を受けるときは受ける。

メリハリが必要だ。何故なら受けるも施すも責任があるからです。

無償か有償かはともかくそんなお節介が本当の人助けになっているとは思えない。

ただの自己満足に終始するだけかも。

 

阿があって吽がある。

「受け取りましょう」があって「送ります」がある。

受け取らない荷物は出しようがない。

ほしいものあがるなら「送ってほしい」というのが最低の礼儀だ。

勝手に送れば迷惑かもしれない。

「あだ名禁止、さん付けの強制」に反対する

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この考えは正しい!

あだ名で呼びあい、俺お前で親しくなる。

むしろ主流だったはずだ。おおいにつけあったものだ。

だが、一方的にあだ名で呼び、一方的にお前呼ばわりは建全ではない。

不服を言えることは大事だ。

いじめられる子はそれが言えない。「NO」ということこそ最も大事な教育だ。

後でいじめられると思うのだろう。

だがいじめはいつも今あるのだ!今を戦う習慣を子供につけたい。

後難を恐れない毅然とした人格を作ることが大切だ。

新しい法律より「公益法人」の定義を

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日本のバカなところは統一教会やエホバの証人のような特殊な例を全体に及ぼそうとするところだ。

法律にエースバイケースやアバウトさがない。

それはつまり当局の責任が追及されないためだろう。

そうやって法律はどんどん細かく融通なく作られる。

法律に人間が介在しない社会だ。

信仰の断絶は法事や葬儀の放棄にもつながりこれらを助長する。

宗教は特殊な人だけのという偏見を増大する。

さらにいうなら親がミッション系の学校や仏教系の小学校に子供を入れたりするのはどうなるのか?

だが宗教の何たるかがよくわからない子供が法事は正座が嫌いだから拒否、ミッション系は校則がうるさいから拒否ならそれは強要してはいけないということになるのだろうか?

これらは成人してからはともかく、子供の心身に被害があるわけではないので許されて当たり前だと思うが・・・。

安倍元総理殺害の山上容疑者は親の狂信の被害者だとしても、成人してからは自由だったわけだし、教会側では彼は在籍していないと言っている。

 

別な法律などつくらなくても、こうしたものは別な法律との組み合わせで今の信教の自由・思想信条の自由の範囲で十分、対応できるはずだ。

宗教に関する法律をいくつも作れば今にお隣の中国の宗教のようになる。

もっともそれを画策している政治家も多いと思うが。

 

今回の問題は焦点がずれてきている。

非常識で極めて奇天烈な邪教を宗教全体の問題とすり替えている。

 

明確に言えば社会に仇をなすものは「公益法人」の範囲から除外すべきなのだ。

例えば同一の訴訟問題の多くを抱えている教団などは考えるべきだ。

「公益法人」と何かの定義を明確にすれば教義云々に触れなくても分かるはずだ。

新たな法律を作るならまずと邪教の法人解散が先だ。

そもそも宗教の何たるかに全く触れずして宗教二世うんうんぬんの法律はない。