これもこの前聖天さまの浴油をしていて思い出した話です。
ずっと以前に私の門下の行者さんがある雑誌で聖天様の原稿を頼まれて書いたことがありました。
そもそも聖天浴油と云う祈願は聖天さまの御体をお洗いもうしあげて、大日如来の仏性を拝みだす御祈祷です。実際そのような意味の聖句も唱えます。
そこで先ほどのアユールヴェーダの話です。勿論浴油のルーツがいかなるものかは私も知りませんし、書いた本人もひょっとするとそうかも?と云う程度のお話でしかないのですが、それはそれとしてアユールヴェーダの基本的考え方がなるほど浴油と同じであると改めて思ったのです。
つまり、過剰なものを除くことが主眼の医学だというのです。
アユールヴェーダではトリドーシャといいって火、水、風の三つの要素をバランスをとるべく多いものを寫する、つまりよけいなものを捨てる考え方をします。
御祈祷と云うと兎角、何かを得るためにする事が多いわけですから「寫」ではなく漢方でいうところの「補」つまり補い足すという考えが強いように思うのですが本当はそうではなく、余計なものを捨てるのだと思うのです。
余計なものを洗い流して捨てれば本物が出てくる。それが最もわかりやすいのがお浴油であるし、本当は他の御祈祷だって全て同じなのだと思うのです。
聖天浴油と云うと密教の御祈祷の最高峰と云うことで、大体これはと云う願いを掛けますが、でもどんな願いでも自分に根のないものは叶いません。
つまり梅に桜を咲かせるようなことはできないわけです。
梅なのか桜なのかわからないから祈ってみるというのも勿論ありでしょうが、梅とわかっていながら期待しても桜は咲きませんし、その逆も同じことでしょう。
それよりも梅なら梅、桜なら桜として咲くことが本来です。
その辺の余計なもの、煩悩を洗い流すのがお浴油です。
洗い流せば本物が出てきます。
だから必死に何とかどっかから調達してきてでも叶えてくださいというより、もうもとからあるものが出てくるのです。
もともとないものは無理やりよそから持ってきたって根がつきません。
これは長く御祈祷していてそう思います。