金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

聖天様を歓喜天と云うのは

古来、聖天様は別名「歓喜天」としても知られています。
インドで「ナンディケーイシュヴァラ」と云うお名前で知られているのですが訳しますとナンディケーは歓喜でイシュヴァラは自在ということですから「歓喜自在天」と云うことになります。むしろ、こちらの方が本来的で聖天様と云うのはどちらかというと日本的な呼称です。大聖歓喜天の「歓喜」が略されて聖天というようになったのだと思います。
実は本当に大事なのは略されている「歓喜」の方なのです。では「歓喜」はどのように大事なのでしょうか。歓喜とは「歓」も「喜」もともに「よろこび」の意味でありますが、密教の口訣には人の喜びを「喜」とし、それを共に歓ぶのを「歓」というのだとあります。つまり他人も喜ばせ自分も喜ぶのが歓喜天の「歓喜」と云う意味なのです。時折、聖天信仰をしている人にもいますが、他人はどうなっても構わない。自分だけがご利益にあずかり喜ぶなどという喜びは、歓喜天歓喜ではありません。それは聖天様の御本誓に遠くそむくことです。
また、逆に人のことはよく歓ばせるが自分のことなどは一切歓ばない。喜んではならないなど思っている人も同じように駄目です。どちらも聖天様の心には届かぬお粗末で貧しい心です。聖天信仰をする人はまず何より「歓ぶこと」が大事です。
些細なことでも喜びましょう。それが聖天様を喜ばせ、また豊かさの源になります。
酷い人になると自分のことや身内のことでも全然喜びません。良くて当たり前だと思うのでしょうがそれは傲慢というものです。
でも本当は「良くて当たり前」のことなど世の中にはありません。健康で当たり前、学校は入れて当たり前、卒業して当たり前、仕事はできて当たり前、商売はもうかって当たり前、従業員は働いて当たり前、結婚はできて当たり前、子供もできて当たり前・・・本当にそうでしょうか?
たとえばこの前の東日本大震災では亡くなってしまった人もたくさんいます。我々日本他人にとっては未曾有の大惨事です。しかし、地球の歴史から言うならばもっと大きな地震があっても少しも不思議ではないのに違いありません。さらに地震でなくても飢餓や戦乱の止まない国で苦しんでいる人も沢山あります。
一見「当たり前」のことを喜ぶ心が無い人はつねに不満だらけです。何もかも良くて当たり前では感謝というものもありません。よく「神様、仏様に感謝して」とはどの宗教でも言いますが、ここで肝心なのは喜べるか否かです。喜びを伴わない感謝などはニセモノです。そこに喜びの心があってこそ本当の感謝といえるのです。