金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

愛染明王の心2

5時半ころ、「起きろ」という声が何度も心の中でして布団の上でイヤイヤ瞑想しました。「眠いのに…」と思いながら最初数息観をしばらくしているうちに今日のお題は何?
この前と同じ愛染明王。ウウーンの種字が見える赤い宝珠が出てくる。
それがやがて蕾となって花と開くかな・・・とおもいきや
逆にどんどん小さくなってそれは種子になって花の中に入っていく。
「お前よ。わかったか?」という心の声。

なるほどね。
フロイドは「幼児性欲」ということをいいました。
いたいけな子供にも性欲はある。
そして性欲の原点は男子は母、女子は父なのだという話。
つまりフロイドの説では父母は最初に出会う異性でもある。そこから人の性欲の旅は始まる。
フロイドは近代心理学の大功労者で心理療法の原点的存在でもあります。
この幼児性欲の話は当時もそうですが「おぞましい話」でもある。
「こんな子供にもいやらしい性欲があるのだ」という衝撃があったわけなのですね。フロイドは子供の泥コネ遊びも幼児性欲の所作といった。
そこには当時は「なんてこと言うんだ!」という朝野の非難もあった。
現代でも初めて聞けば衝撃的な話かも。
でも心理療法の世界ではもう古典的な定説なのです。
フロイドの考えは全ての欲求は性欲に帰結する。

仏教でもよく似た話がある。心識が転生する際、交合する父母のもとで、母を憎めば女と生まれ、父を憎めば男と生まれるらしい。
仏教のこの説も非常にフロイド的ですね。
フロイドも男子は父をライバルとして母を争い、女子は母をライバルとして父を奪い合う存在と言っています。
此れをしないとどうなるか、例えば男子が母を奪い合って父と対立することを拒めば、母と同化せざるを得ず、女性化して同性愛者になるという。
だから古典的には「性倒錯」といった。今は言わないけど・・・。
でもこの考えだと心優しき人は皆、同性愛者に成っちゃうね。おかしくないですか?同性愛が悪いとかじゃなく理屈として変。

でも私が今飯縄様にみせられているのはまるで逆の考え。
「父母への思慕は性欲の芽生えである。」ではなく、逆に「性欲も父母への愛情の延長線上にある。」ということ。
同じことのようですが微妙に真逆なのです。
つまり、性欲ではなく愛情が先にある。
むろんこの愛情はアガペーでもエロスでもなく、お互いがただ寄り添っていたいという気持ちです。ひな鳥が親に身を寄せるのと同じ。
雀が「押し競まんじゅう」するのと同じ。煩悩の正体はこれ。
寄り添い、ふれあいということ。接触したいということ。
他者といたい。犬や猫抱いたりするのも一緒の心。
それが性欲より先にある。鳥や哺乳類特有かな。いやいや魚でも爬虫類でも群れるということもそういうことでしょう。
今回、飯縄様が言いたいのはそこなんだね。たぶん。
だから「煩悩即菩提」。この思いが他者を思いやる利他と一つ。
この思いなくして菩薩行はない。
 
もちろんこれは宗教のお話。
生物学的にはフロイドの考えに分があるでしょう。
遺伝子を残したい欲求。
それが性欲の正体、恋愛や結婚の正体もそれ。あえて否定しません。
鳥やワニが群れているのも愛情なんかじゃなく餌の豊富なところがわかるし、敵が来たのを発見しやすいからというのも動物学的にはそうでしょう。
それが正しい。

でも密教でいう煩悩即菩提とは、それがどうあれ奥の奥にすべては「他者とつながりたい」から出ているという考えなのだと思う。
それは個々の生き物の脳にはなくても万象と同体の大日如来にはあるのです。全ては大日の中にある。
チベット仏教の大日には仏眼仏母という妻がある。だからヤブユム(父母仏)像がある。
このことは「宇宙はつながりたい性格を持つのだ」を言っているのではと思う。
この思いあって生き物は存続していく…。のではないでしょうか。