金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

仏教は人のための教え 宗教と社会通念

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宗教は変わらない存在。社会は変わる存在。

宗教を知らないと驚くが世界の宗教はLGBTに差別的なのが普通だ。

宗教だけでなく道徳規範でもそうだ。

特に一神教の社会はそうだと思う。

まあ、ちょっと前までは日本社会の通念もそうだろう。

これらは医学書でも「変態性欲」という分野だったわけだ。

今や受け皿ができて社会通念が変わってきたと言うだけのことだ。

良いも悪いも受け皿があるかないかだけのことだ。

 

戦前の日本では一朝ことあれば一命なげうち「お国のために死ぬ」というのが善だったのが、戦後のアメリカ型民主主義に変化した日本では一転して「非人道的な考え」だと言われるのと大差ない。

 

聖書の中で滅ぼされた背徳の町ソドムとゴモラは有名だ。

ソドムは同性愛者の町でソドミーとは同性愛者の異名に使われてきた経緯がある。

キリスト教の原理主義では断じて認められないことだ。

厳しい自然環境の砂漠で生まれた宗教では子孫を作り民族を栄えさせることがもっとも大事だったからだろうか。

 

ただそれら多くの宗教では現代社会に適合するために協調して言わないようになってきているというのが実情だ。

これは宗教から言えば本来的ではない。だって絶対の神の教なんだろう?

だが、実際に猛スピードで変わる現代社会に対し、1000年、2000年前の宗教の教理でその是非をいまさら言うのも愚かしいことだ。

 

例えばイスラム社会では犬は否定されている生き物。だが最近はペットとして飼っている家も多いらしい。

厳格なイスラム共著から見ればトンでもない汚らわしい事なのかもしれない。

私にしてみれば犬は悪だという教義もバカバカしいが、イスラム教徒の人が飼わないのは自由だろうとは思う。

逆に目まぐるしく変わる社会通念で一々、万古、変わらない宗教をあげつらい否定し非難しても始まらない。

 

大川さんを最高神と崇める「幸福の科学」みたいな、昨日今日出てきたような急場拵えの疑似宗教は別だが、そこは宗教を信じる各人が自分の中で折り合いをつけ社会に歩み寄っていくしかないだろう。

それも誰が何の権利で彼らをかまゆでの刑にするというのだろう?

 

「変な宗教」というのはもともとあるわけではない、時代が変われば変でないものも変だし、変だったものももはや変ではないのだ。

 

手前味噌が辛いが絶対の神が決めた教えではなく、仏教の様に人を活かすために守るべき教えこそが大事な宗教はこういう時も時代に即応して精彩を放つことができるのかと思う。

たとえば仏戒の違背にしても、それは教団や世間に対する罪かもしれないが、仏に対する罪ではないのだ。

人のための教えならLGBTの人にも抵抗なく信仰できる教えでなくてはなるまい