金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

聖天様の魔性

若いころ「聖天様に魔性はありますか?」と師匠に聞いたことがあります。
「それはある。」
「行者はある意味その魔性とずっと対峙していかないといけない。」
具体的には聖天様の魔性というけど、ここおさえておかないと自分の魔性として出る。
内外に様々な障礙が起きる。魔がさして普通は考えられないようなとんでもないことしたり、犯罪に手を染める。酒や女で身を持ち崩すなど色々です。
自分でそういうことしなくても突然大きな災難に会うとか。
魔性に負ける。
験力あっても魔性に負けてしまう行者はいます。
そういう人は験力出しながら滅んでいくんですね。
それ実はビナヤキャと感応している。

だから聖天供やるのはいいことだけどここがおさえられないとまずい。
お坊さんでもこう考えている人もいますね。「聖天供なんて簡単なこと。誰かに授かればいい。」形としてはそうだけど・・・
やりさえすればご利益があるというものじゃないんですね。
だから失敗した行者の末路を見て「怖い神様」というのもあながち当たっていないわけじゃないですね。
軽く見るなら触らないことです。
此れがわかっていないまずい人に授ければ伝授の阿闍梨も障礙受けます。

だから本当に一番大事なことは行者はいつも十一面様の側に立って行かないといけない。単身天を拝むのが難しい理由はそれ、自分が十一面観音と感応道交していて初めて修法できる。
ただ、単身天に祈るだけなら密教にならない。ヒンドゥー教でいいわけです。
密教の天部信仰は本地ということがついて回ります。
それでこそ渋も甘みに代わるのです。

日常、もとより罪悪深重の身の上で観音様、背負って貪瞋痴と常に向かい合ってそれを調御していかないといけないのが聖天行者です。ここ、しんどいです。浴油行法すること自体よりもっとしんどいです。(行法自体は楽しいですね。この楽しさわからない人は行者は向きません。無理。)
私なんか全然立派な人間じゃない、お粗末そのもの人間だから大変です。
だから「あ、此れやったらまずいよね。」「おっとっとと」と常に自分にブレーキ掛けながら進む心が大事。そうでないとビナヤキャが暴走しだす。
極端な話がジキル博士とハイド氏みたいなもの。
だから壇に上っている間だけが聖天行者では務まらない。
聖天様で御祈祷していきたいなら、最初から最後まで聖天行者として生き、死ぬるのでないと難しい。
別なバージョンの自分なんて無しです。

まあ、聖天様を拝めるのは有り難いっちゃ有難いですが、見方によっては一種の呪いにかかったようなものかも()。そう思えば一番近い。
でもその呪いがかからないと聖天行者にはなれないんじゃないかな。
天部の行者には多かれ少なかれそれがあるね。
 
日光修験道の伊矢野先生は不動法だそうです。ちょっと変わっているけど不動法で聖天様の前行やった。そういう伝がある。それがぶれない方法。なにせ「不動」ですから。
湛海さんもそうだけど不動法やった聖天行者は多い。不動様いいですね。
聖天信者はお不動様合わせて信仰するといいですね。持戒の意味でも。
十一面様→聖天様→毘那耶迦の構図ができて彼らが直には働く。
ここがぶれていると障礙になる。
ビナヤキャが防げない。
逆にこれがくずれるとビナヤキャが勝手しだして障礙が続々起こります。
 ご用心あれかし。