今日が結願。
古来、双身毘沙門天のご誓願には「懈怠の行者を守護する」というので、私みたいなのにはもってこいなんですが、・・・この前ある住職と話したら「懈怠の行者と言ったって今は皆、懈怠の行者でしょう。」みたいにいわれた。それはそうかも。
そもそもこの行法初めは縁あって信貴山の故澤沢密厳猊下から伝法院流の許可として印法灌頂とともにお授けを頂きました。望外の幸せでした。
最初古美術店でお像を見つけ、でももったいないからというので信貴山玉蔵院に収めてもらおうと思っていきました。
それで伺ったらそういうことなら管長様にあっていきなさいなと誘われビックリ。いきなりいってそんな偉い人とあって一体どうしようと思いました。
お会いしたら猊下は「それ、あんたが拝みなはれ」と言われる。
「いや双身毘沙門法は知りません。」
「私が授けるから拝みなはれ。」と言われて始まったわけです。
聖天供より先に授かったわけです。
野澤猊下のお話ではこの作法には天台で言う聖天供の前に十一面供というような、これと決まった前行はありませんでしたが、真言のお方はやはり理趣経法とか大日法などはそこそこ多くやっておくべきだとは言うとのこと。
後には天台流を現・善光寺大勧進の滝口宥誠御貫主より親しくご伝授いただきました。
最近では毘沙門天大好きな、かっての同門、泉養寺の菊地師からも別次第を教えてもらいました。
まあ、そんなわけでそこそこご縁はあったのですが専ら聖天供をするので以後はあまりする機会がなく、こんな時でもないと…と思ってやらせていただいてます。
時間的に七ヶ座出来ないのですがまあ一件の祈願で100辺くらいの浴油で祈願してそれで勘弁していただきますので、こりゃあ懈怠の上の懈怠ですね。お許しあれ。
でも聖天様と違って拝みやすさはある。
その理由の一つとして何せお顔が毘沙門様ですからヒューマノイドの神様です。
聖天様とは違い何となく意志が通じやすい。分かりやすいですね。
そこにいくと聖天様は象頭人身だから、相対しても最初はよくわからない。
考え方がまるで違うんだね。我々人間と。
だから人間の価値観だけで聖天様は推し量れません。
そこに本当の聖天様の怖さがある。どう出るかわからないわけです。
それで行者の側ではひたすらご意思を探るようになる。
それが聖天供の難しさ、聖天様という方が何をどう考えてくるのかわからないと聖天行者は厳しい。その心を知らずして聖天行者に成れない。
よく聖天様が象頭人身なのは象使いが象さんにいろいろしてもらうように聖天様が行者の言うことをよく聞いてくれる表現なのだとか言いますが、…
象使いだって象の心がわからない象使いなんていませんからね。
そういうニセモノの象使いはしまいに象を怒らして踏み殺されたりもする。
だから聖天行者というのは霊能者でなく聖天様が何を考えているのかおおよそわかる。こうしたらどうなるも検討がつく。
そうでないと聖天行者ではないね。
聖天供をしてますなんて言ってるけど。…この人、聖天様に嫌われてるのになあ・・・という人もいるよね。
聖天様は一言で言えば聖天様を、一切の欲得なく浄心でこよなく敬愛できないのではダメです。
人気の聖天供でも表看板にうたってお金稼ぐかなんて・・・聖天様を金儲けのツールみたいに思っていても聖天様には見破られて、しまいには手酷いしっぺ返しがきます。
場合によってはここまでするかというような全てを失うような罰を降す。それが聖天様です。たとえば象さん怒らして軽く蹴られたらどうなる?
だから早い話、行者は自分の脳が聖天様の脳にならないといけないです。
聖天様に人間的な考えの押しつけはできないんです。
「感応道交」とはそういうことだと思う。