金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

毘沙門天信仰の功徳

私は若いころ信貴山玉蔵院の野澤密厳管長様とご縁を得て毘沙門様にもだいぶ親しむことができました。

実は私は聖天浴油より先に毘沙門浴油をお授かりしたのです。

私には信貴山で観た毘沙門天信仰は聖天信仰の様な深刻な祈願をこめての秘密の信仰というより明るい晴れやかなあっけらかんとした天部信仰に思えました。

「こちら様はなんか楽しく朗らかなお山に感じます。」というと管長様は「それや。そうなんや。それが毘沙門様やと思うんや。」とのお答えを頂戴いたしました。

お山に行くとなにか信貴山の虚空に楽器が浮いていて天樂が鳴り響くような気持でした。

ご祈願は主として勇壮な大般若転読が本堂でなされ、密厳猊下は連日浴油と護摩をかかすことなく修されました。

 

私はもっぱら聖天信仰の信者であり、聖天行者の端くれでもありますが、毘沙門天信仰の人を見ていると聖天様のような派手なご利益というものはそれほど聞かないですが、それよりも危難にあって必ず救いがあるものだなあと思いますね。

まじめに毘沙門天を信仰する方はこれという難儀に必ず救いがある。

これは毘沙門様が諸天神の内にも大変徳が高い上階の天部だからですね。

そう思います。

その点聖天様は一時的に大きなご利益を授かってもそれを良いことに生意気になって地獄に逆さ落ちになるのはいくたびも見てきました。

これは決して聖天様に非があるのではなく、どこまでも信者の信仰における非だということは強調して言っておきたいですが。

逆に毘沙門信者はうだつがあがらず、これというとびぬけたいいことがない人でも、これはエライことになったというときでも必ず何とかなっていく。面白いなあと思う。

でもだからこそ聖天信者でも毘沙門天信仰をどこかに持っておくことはとてもいいことだと思うのです。

こういっては何ですが表信仰は聖天、裏信仰は毘沙門天、そういう聖天信者がいていいかもしれないなと思います。

うちでは十一面観音、飯縄明神につぐ第三本尊になります。