こんな私のどこがよくて選ばれたのかわからないけど・・・でも私は聖天様に聖天供をするように選ばれて生きてきたんだなあ・・・と思っています。
今は私にとって聖天様は他の神仏とは比べられない存在ですが、もともと聖天様自体がそんなに一番好きというわけでもなかったですしね。
生駒の湛海さまは尊天と腐れ縁ですったもんだしてきた人だけど、聖天様はそういうとこあるな・・・とよくわかる。
湛海さまのような大行者とは自分は違うけど。聖天行者を長くしているとそういう宿縁はみながそういう部分感じていると思います。
聖天様の行者で失敗した人間も何人か知っている。
途中から変な欲出して毘那夜伽にみいられるんだね。
常に「自らを慎む」ということのない人はしてはいけないものです。
私の知る失敗したものは皆そういう人間。
こういう人たちってそれなりにある意味とても利口なんだね。だから慎みを忘れる。
利口だけどそれは仏教の言う智慧ではない。八難所で言う「世知弁聡」というやつ。世間知にたけて利口な人。
でもそういう世知など尊天には通用しません。
慎みのない人はどんな善良そうな人でも聖天供させると、やがてはしまいにおかしくなる。
「魔法の力」を手に入れて化けの皮が剥がれるンだね。
高額の宝くじ当てて人生灰になるのに似てる
「自分はいい気になりすぎていたんだ。」とようやく気付いた時にはもう手遅れの状況。
すっかり魔道に堕ちている。
尊天の恐ろしさはそこにこそある。
もしも伝授するなら最後にうちの尊天を私の迹に見てくれる人がいるとするならその人。
それを除くと、基本的に聖天供の伝授はもうしまいと思っています。
下手に教えると罪作るので難しい。
失敗したその人間もだけど私の越三昧耶罪にもなる。
最後に伝えようとした人が自分で聖天供するのを放棄したのでそれで最後だと思った。
もうこのへんでいいんだな・・・と、
今のところは新弟を見渡しても聖天供までする人間は出そうにないしね。
「秘法はやりたいという人間にはむしろ授けぬ方がいい。そうでない人間のなかから人材を見つけて授けろ」昔の秘法伝授にそういう格言がある
これもそういうもんですね。
私もはじめは別に強いてやりたいわけじゃなかった。
でも、そういう聖天様の魔の部分は実は行者が「菩薩」になるためにあるんだと思う。
魔性に引っ張られないような慎みを養えることが大事。
たとえ、へっぽこでもいざというときに菩薩道に心していないといけない。
このイザが大事。
いざというとき魔に行くやつもいる。
そのために密教では「聖天は魔王だぞ」といういう設定を外していないんですね。菩薩を養成する魔王です。
油断すれば容赦なく魔道に落とされます。
魔王から護法神に成った因縁談はそのことを言っている。
聖天は悪魔だと恐れる人がいるような因縁譚がなぜ密教の中で大事に伝えられているのか。
それはこのためでしょう。
だから行者が感応道交していかなきゃいけないのは尊天じゃなく十一面観音の方なんだと思う。観音様の心が一番大事。
信者だって基本は同じ。
その点を言えば私はアホで世知弁聡じゃなかったこと
そして、なにより聖天様以上に長く十一面様を拝ませていただいた。
それは私の幸せです。