金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

霊能主導で寺滅ぶ?

昔、学生時代にある教団(新宗教じゃないです)のお手伝いをしていたことがあります。アルバイトではないのです。そこの和尚さんを気に入って法華経の話をしてくれと言われて毎月言って少しばかりお話をしていました。
今考えると学生のというか鼻たれの分際でとってもナマイキですよね。
する私もアホならそんなガキに法話させる方も失礼ながらアホです。
法話ならぬ呆話かも。
でもそういうナマイキなことを平気でしていた。私の若いころはそういう恥じ多き人生です。
鉄面皮の極み、頭に血が上ってたんだね。
よくない表現かもしれないけど「キチガイじみていた」といってよい。
それぴったりです。
で、その教団というかお寺にはぞくぞくと霊能のある人が集まってきていた。セミプロ級の人もいたと思う。
住職はそれなりの祈祷力のある方です。行も随分された方。
集まってきた人の中には中には親子でスプーン曲げなんて簡単という人もいましたが、見ていないので嘘か本当かは知りません。
皆そろって住職の神通力というか祈祷の力をほめていました。
そんな人を一杯集めた。それで準指導員にしていた。私はそうではなかったけど別格扱いでした。なぜなら他宗の人間なので。
そこまではいいが、そういう霊脳のある人って皆、主観で物言うんですね。
バラバラに。
からしまいには齟齬をきたす。「なんとかさんのあの問題は水子霊の障り」という人もいれば、「嫌々。違う。先祖が浮かばれていません」とか、はた亦「動物霊の仕業に違いない」とか、もうバラバラ。
しまいには「どっちを信じるのか」と信者に詰め寄る人も。
じゃあ、この人たちは皆インチキだったのか?
ウ~ン 必ずしもそうとばかりはいえないでしょうね。
問題の解決ということなら、この問題はAさんは水子というなら水子でそういう形で解消させられる。
でもほかのBさんは荒神様の祟りということで無いと処理できない。
Cさんは先祖の障り…というように問題解決の枠組みなんだね。
そういうのはそれぞれやりかたがあある。
本当は何だかわからないけど、なにかしらの名前つけて処理することで問題をその人の末那識領域から引き離すことは、いずれも可能なんでしょう。
それが水子だの先祖だの荒神だの…色々ある。
どれかひとつを選択すればある程度答え出すかもしれませんが、その前の名前をつける段階でもうムチャクチャもめている。
「エ、だって真実はひとつじゃないの?」というお方
末那識はまあ、今風に言えば無意識のレベル。
そこで何にひっかかっているのかだと思うんですね。
それが水子なのか、三代前から家の庭にいるお稲荷さんの狐なのか、死んだおばあさんなのか…そういうことでしょう。
それが末那識の形と言ってもいい。多くの霊能者はそこを見ていると思う。
阿頼耶識ってのは異熟の集まる場所ですね。そこで「○○酵素」みたいに発酵するのを待っているけど、これは「もの」じゃないので見えません。
まあ、何かサブモダリティに置き換えて感じるということは可能かも。でもそこまで深い領域はわからないのが本当のところでしょう。
素人目には霊能者は皆同じように感じて同じようにわかると思うけどそうじゃない。
皆フォーカスするところが違えば結果も違うんですね。
これは霊能者自身の因縁も大きく作用します。
うちも皆さん霊感のお話をしてくるけど「ああ、そうですか…」と言って聞くのみ。別にバカにしているんじゃないんですよ。
他人にはわかりませんもの。
…やはりこれって主観の世界だなあと思って聞いているんです。
でも、それはそれでよいのだ。
誰の霊感だからダメとかじゃない、私の幻覚も全部含めて主観の世界の話でしかない。
でもこういうのを汎用して寺院経営の根幹に据えたら人は皆そういう主観の世界の部分に頼ってしまう。
仏法はどっかしらにいってしまう。
聞きたいのは法話じゃなくお告げ。それじゃまずいでしょ。
こんな経験もあって私はお寺には霊能なんかなくていいと思っています。
むしろないのが正常。
だからね。
あったにせよ、寺院の運営には霊能はあくまで刺身の妻、薬味程度にしておくのがせいぜいです。メインディッシュになんかしたらお腹下しまっせ。そんなもの。
以前に「私霊感凄いんです。先生そういうのないでしょ。助けてあげられまよ。」なんて人もいましたけど「それはどうもありがとう、おとといおいでください。」です。