長寿法でご自分だけでなく、一族も健康長寿のご加護がいただけるという法です。(希望者のみ)
在家の密教修行としてはこれがマックスになります。
これは各コースとも先の修行に進みたい方のみで結構です。
年内の修行はそこまでで密教は来年になる予定です。
いずれのコースも来年は専門的な修行に入ります。各コースは希望するだけでは伝授はされません。
特に密教修行がふさわしくないと思う方は来年の時点で外します。
準備ができていないという人も同様です。
特に言葉使いや礼儀作法がなっていない人は、仏教者としての態度が根底からできていないと考え伝授よりはずします。お経が良く言えるなどという能力的なことはその次にくる問題です。
まず1にも2にも礼儀です。
普通は行儀見習いで3年ほど鍛えられてからやっと得度です。
この点は住職の私だけの判断だけでなく上座の弟子方の意見も聞いて勧めていきます。
修行者はサンガ(僧団)の一員ですので師匠とさえ上手くコミュニケーションがとれていれば、ほかはどうでもいいというものではありませんので。
先に進むにつれ、こうした判断の比重は極めて重くなります。
そうでないといくら修行したところで社会に向かって何事もなさず、術だけが優れた妖怪のようなものやただの奇人変人になりかねません。
それではいけません。法の値打ちが傷つけられます。
密教に関しては、「同じ時期に得度したから皆が同じように進まないと不平等」だとかいう考えは当方は全く持ち合わせていませんので諦めてください。
なぜなら密教は器の人がすべきものだからです。
ハッキリ言って差別の世界です。
差別がないなら、それは密教とは言えません。
誰にでも区別なく差異なく公開するものは秘密の教えといいません。
その器の人という場合、私は長年の経験から器でない人のほうがはるかに多いという認識でおります。
器ということは必ずしもただ修業に熱心であるからという考えではありません。人となりが問題です。才能もいります。そしてそれ以上に仏縁です。
したがって何十人という修行がいたとしても一人も密教まで至らないということも十分にあり得ますし、それでも全くいいのだと考えます。
以前には器でない人間にも快く安易に法を許したために人にも迷惑をかけ、一代の恥辱になりました。
後で聞くとあんな怪しい人間‼裏表のある人間‼と思っていたという人が結構沢山いまして、ああ、自分は彼を見ていなかったんだなと思いました。
これはふりかえるみるに法において、決してもったいぶらず、お高くとまらず気前の良い人間と思われたというわが邪心のなせる業です。
自分の在り方にこだわり人物そのものを見ていなかったんでしょうね。
真はそのような安易なものでないと思います。
これからは法において厳しさを第一としていこうと180度改めます。
こんな偉大な方の例を引き合いに出しては全然レヴェルが違うので申し訳ないかぎり。まことに恐れ多いことではありますが…
判りやすい実例をあげたら密教とはそもそもそういうものだと思います。