ある時九州から耳の聞こえないというお子さんを連れてご祈祷に来た人があったそうです。
それで白戸師匠が一通り拝み終わって打ち鳴らしをカーンとうったとたん。
その子供さんは柱にしがみついてぶるぶる震えだした。
その時から音が聞こえだしたのです。
その子は初めて音を聞いて驚いたというのです。
…こういうことって不思議だけどあるのです。奇跡ですね。
でも、祈祷なんか効くわけがないという人はこういう。
「じゃあ耳の聞こえないのが、みな拝んで治るのか?」と。
それはわからない。
というより、たぶんそうじゃないでしょう。
噂を聞いて耳の悪い人が門前に市をなしても治らない人もいると思う。
私に言わせれば拝んで聞こえるようになったという現象はあるけど、こういうことは行者が自分でできる訳じゃない。おきてくる現象なのですね。
方法論は表向きの事象です。
本当は方法論じゃないんです。
祈祷というものは引き金にすぎない。引き金だから必要だけど玉が入っていないと撃てないですね。
逆に言うと玉が入っていても引き金がないと撃てない。
だからこの場合、祈祷は必要です。祈祷しなくても治ったとは言えない。
その玉は人それぞれです。その人の因縁ですね。
本尊と行者と施主の因縁です。「三力冥合」という。
「壺坂霊験記」というのがある。見えない目が壷阪寺の観音様の霊験で開く話。昔からお芝居にもなっています。
そういう不思議は因縁が熟した時に起きてくるんです。
達人にはその時何をすればいいのかがわかる。
エリクソン催眠の開祖とされているミルトン・エリクソンは重度の遺伝的なアルコール依存症の患者に「植物園にいってサボテンを見てきなさい。あれね、一年でも一滴の水がなくても枯れないんです。」という話をして患者を植物園に行かせて直してしまった。
心理療法の達人の伝説的逸話です。
そういうことができるというか…おきる。
おきるのがわかる。
これをこうしたら、こうなるという直感智です。
そこに定石(お定まりの方法論)はどうさがしてもない。
つまり方法論が方法論でないんです。
「祈祷なんか効くわけがないだろう?」という方々。そういえば少し納得いきますか。
100歩譲れば祈祷という方法論が効いてるわけじゃない。
本当はね、奇跡的なものでなくてもどんな祈祷でも本当はそうなんです。
だから唱えたお経や真言をどんなに分析したって病気が治る成分や要素なんぞ出るわけない。
実はそれが作用しているのはお参りする人ではないのです。
祈祷する人、行者自身です。まず自分自身が対して一番御祈祷が効いているのです。
そうでなきゃ何もできない。
祈祷はそういう世界。
結果を出すために必要な行為を行うこと。それが祈祷。
白戸師匠はそういうことができた人です。
そういう空間をまとっていた人といってもよい。
オーバーに言うとそこに触れた人には自動的に問題解決にアクセスできる。
師匠は見える、聞こえるという霊感はなかったけど、なにをどうすればどうなると先を把握できる。それで必要なことができる人でした。
一種の未来予知。ああ、この人治るなあ・・というやつです。
(実は此れ、医者。心理カウンセラー。薬学者からスピ系ヒーラーまであらゆる治療家にあることだと思うんです。)
ただほっておいては駄目。祈祷して(治療して)どうなるかがわかる。
これ、絶対必要です。祈祷をやるなら。
私も少しだけそういうのはあるには、あるけど師匠に比べたらとてもではないが…恥ずかしながら「月とスッポン」のレヴェルです。(笑)