例祭の朝。祈願の道を志すお弟子さんたちから質問があり少しお話をしました。
人の運命にどこまで介入できるかということ。
例えば、もう危うい病人をなんとしても救うというにはどうしたら?という質問がありました。
そうですね。
なんとしても救うにはまず前提が必要です。
それは「救える可能性」という前提です。
救えないものは救えない。
その可能性は先ず見切らないといけない。
それじゃなんとしても!にならないって?
そういうなんとしても!は残念ですができません。
神も仏も無限の力があるのでは?というけどね。
はっきり言いますが祈願という実践の場では神も仏も法も有限です。
何故なら有限である人間を通してすることだから。
私が修行時代にこんなことがありました。
白戸師匠のところに急性の病の人の話が来た。
師匠はその日、関西に出張する予定でした。
それでどうしたかというと電話口で「それはもう手遅れだわ」と話をした。
別に出張があるから断ったのではないのです。
後で聞かされたが「急性肝炎」だったそうです。
師は手遅れと直感的に把握したという。
未熟な私はその時は、正直、かわいそうだから手遅れでも拝んであげればいいのになあ…と思ったのですが
そこは師匠も手遅れでもどうしても祈ってくれと言えば祈ったかもしれない。
でも相手も師をよく知る信者さんだったらしく、もうそれ以上は言わなかったらしい。
ああ、この先生がそう言うなら駄目なのだと。
実際この方はその日のうちに亡くなったそうです。
生きるか死ぬかの命を懸けての祈祷ならそのくらいの信頼がなければ逆に頼めないものです。
師匠はこうも言った。高齢になったら人はだれしもいつか亡くなる。人は死を迎える覚悟がいる。
だから最後の最後は特別な理由がないなら、ただ生きていて欲しいという理由だけで延命祈願はしてはならない。
今の私ならそれが祈祷に生きる専門家の判断だったのだと理解できます。
私の近年のケース。もう寝たきりで相当の高齢で今まで何度も危ないところを祈って何とかなってきた。
だからもう今回は無理といったん断ったのだけれど、最後の最後にどうしてもと頼んできてそこまで言うなら・・・とやった結果、やはりなくったこともある。
檀から降りてすぐになくなったと電話が来た。依頼者は大変なショックだったようです。
結果、信仰を失った。
お金はいらないといったけどそうはいかないとおいてはいったが、そのあと連絡は途切れました。
最後の最後は亡くならない人はいないのですけどね。
それで改めて思った。死から目をそらし続けてはいけないんですね。それが師の教えだと思う。
臨終の心が必要。本人も周囲も。宗教にはそれがある。医学にはないことです。
それをいつの間にか医学もどきのことになっている。
「祈るだけだもの、気休めでもいいじゃないか?」というのは祈祷というものを知らない人のセリフです。
でも相手の気持ちに寄り添うための方便としての祈りならそこはそうかもしれないですね。
・・・それもいいでしょう。
でも、そういう祈りなら一緒に私とお参りしましょうでいいはず。
滅罪寺院の僧侶で普段、祈祷というものを知らない僧侶の場合ならそれでも十分と思う。
でも、ここで相手に求められているのは慰めの祈りじゃない。あくまで結果を出す祈りです。
慰めが欲しくて祈祷行者に祈祷を頼む人はいない。
そして祈祷に生きる行者もまた慰めだけで本気で本尊にむかいあうことはできません。
そうした気持ちがないものに結果を出す祈願などできない。
私の場合はどうしてもといえば祈りますがそういう時は「ダメ元」と考えてください。いいですね。といいます。
そこまで深刻でなくても何事の祈願でもやってみないとわかりませんと申します。
絶対かなわないければだめだというのではお受けできないと言います。
無駄な期待をもとにお金をもらいたくない気持ちは真摯な行者ならだれでもあります。
そういう状態で拝むとなれば一種の賭けなのでかどうしてもハードな祈願になる。
駄目だろうからと、ちょいと少しだけなんかしておくくらいならはっきり断るべきだと私は思います。
いい加減なジェスチャーは神仏を穢し、法を穢すことになりかねないですから。
だから断る勇気は大事にしている。
もっともいよいよなので最後を楽にしてあげたいという御祈祷は受けています。