今日、三年間、寝たきりの植物人間のご家族をお持ちの方が見えました。
はじめてで私は全く存じ上げない方なのですが、なにかできることはないかということで望みをかけてこられたようでしたが・・・
時間の都合で話などはほとんどできないのでよくわかりません。ですからそのかたのことは措いて、これからする話は一般的な話として申します。
私は植物人間状態の方を治すという試みをしたことはは一度もありません。
何故だか申しましょうか。無理だからです。
ほかにも先天的な知的障害を治す祈祷もしません。
初めから無理だと思うことに祈祷などして期待させるのは罪だと思うからです。
今日も「冷淡なことを言うと思うかもしれませんが、気の毒ですがそれは無理です。」と申し上げました。
私の師匠という人は無理だと思うことはきっぱりと断った人間でした。
でも「神仏は最後の望みだから自分でどう思おうと祈ってあるべきでは…?」という考えもあるでしょう。
しかし、行者は常住加持により神仏と常に交流がある、祈ればこれはどうなる。すぐにわかるのです。
私は未熟な半端者でしたので「師匠も断らずに拝んであげれば気持ちがやわらぐののになあ…」などと思ったものですが…今は全くそう思わないですね。
祈祷は現実に対処するものであり、ただの気休めであってはならないと思います。
私は疑わしいと「それは気やすめのおつもりでしょうか?私にはそんなことしてる暇はないのでできません。」といっています。
それは人の気持ちに寄り添うということになるけど。
そうであっても祈祷の目的はそれじゃない。
でも本気で難しいことを祈願するとなると毎月祈るのが前提になる。それも結構大変な祈祷をする。本気ならね。当然お金もかかる。労力もかかる。
だからそういうことは「可能性」という感覚を無視して、ただ頼まれたからというだけではできない。
昔の霊験談などを見ると奇跡の羅列です。でも本当はこういうことは100に一つ、1000に一つです。
だけど、そういうの見て皆期待する。
九死に一生を得る。確かにね。そういうこともある。
でもそういうことは起こせるんじゃない。起きるだけです。そういう話すると「なんだ。コイツ。てんで自信がないんだな。」と笑う人もいますが。
その通り!そんなものあるわけないです。
ホントのこと言えばそんな難しい奇跡的な事じゃなくても意識的に起こせることなんか一つもない。
祈ったら解決した。そういう結果はあっても自分が解決したわけじゃない。
それだけのこと。種を赤せば本当にそれだけです。
そういう凄いことが起きることもあるけど、でもそれを期待させることは人間としてできないですね。
ましてや植物人間の方が回復したお話はよその宗教でも知りません。
だから人としてはこういうほかはない。「無理ですね。そんなこと。」
今日もはっきりそう言いました。「それは祈願はできない」と。
神様に祈るなら自分自身でお祈りする。こういう問題はそのほうがいい。
でも仏や神は絶対ではないのか?というあなた
そうでしょうか?
仏教の真理とはすべてが相対的であり絶対は存在しないという考えです、
それを空という。