以前、仏教における祈祷もつまるところ供養以外の何物でもないというお話をしました。
だから御祈祷を頼んでは神仏に負担をかけて申し訳ないとか言うことはないのです。
供養が神仏に至らねば結果は出ないのですから。
これは祈祷自体が檀波羅蜜と言い、菩薩の六波羅蜜(六つの大乗仏教の主要な修行)であるからなのです。
檀波羅蜜(余談ですが女優の壇蜜さんはこれからお名前を問ったそうです)
インドではダーナと言います。これが転じて「檀那」という言葉になるのですが、要はお布施のこと。
だから時々無料で祈祷して欲しいという図々しい人もいますが、それじゃダーナになりません。
坊さんというのいいかえればダーナの請負業ですから。
「無料なんでもお拝んでくれる人いるんですよ、えらくないですか_?」って人いますけど・・・まあ、それは祈願者本位ではなくて拝む本人の御修行ですね。
それじゃダーナにならない。もらえるものもサーヴィス程度。
わたしは犬猫の捜索祈願は無料でさせていただいています。
では、それはどうなりますか?
ただじゃお布施にならないからダメなはずじゃないの?
いいえ、それは実は私の側のダーナなんですね。行方不明のわんこ・にゃんの捜索祈願はわたしがお布施しますということです。
じゃあ祈願と供養の違いは?
それは御先祖や亡くなった方へのダーナは全部回向しちゃうわけです。
自分の祈願とかしません。
ですから仏檀でご先祖様に祈願するというのは基本的におかしい。まあ、大変な時には「おじいちゃん、おばあちゃん守ってください!」っていう人はいるけどね。
するなとまではいいませんが、基本は逆です。
おじいちゃんやおばあちゃんでなくもっとパワーのある存在に供養すればそれは大きなダーナになるし、結果、神霊の納受を受けて祈願がかなう。そっちが祈願です。
でもやることの構造は同じ。
お返しが来るかどうかだけです。
じゃあ祈願志向なら供養はいらない?
そういう徳のない考えしてはいけない。
まるっと布施する供養は実は大きな功徳になる。
見返りのない世界だからこそ大きな功徳になる。
先祖供養でも施餓鬼でも物欲しい心でするなら意味ない。
ダーナは別名「喜捨」という。
捨てるを喜ぶということ。
お金を捨てる?いいえ、違います。執着や見返りを捨てるのを喜ぶ。
そうでないといくらお金かけてもダーナになりません。