今日弟子から「供養もつまるところ祈願ですか?」と聞かれた。
まあ、そう考えてもいいが。本質的には「祈願も供養だ」という方がより正解だと思う。
聖天浴油供でも毘沙門天供でも護摩供でも「供」とつきますよね。
つまり聖天浴油供養法・毘沙門天供養法・不動護摩供養法というのの略です。
全部「供養法」なんです。
仏教の祈祷は、
供養じゃない祈祷はないんだね。
仏天を供養して功徳を積む。
それが本質。
なぜ仏天を供養すると功徳になるんでしょう?
それは仏天が我々衆生のために働かれるから、その方を供養するということは
専門的に言えば威光増益といってパワーアップさせるんですね。
ものを上げるとかお経を読むそのものより供養したいというその気持ちをお喜びになる。
それが威光増益になるのです。
そうすればより多くの方がそのお力で救済されるから、つまるところ間接的に功徳になるんです。
そこまでつながってこそ仏教の供養になり祈願と言える。
息災はそのまま仏天の願いです。
増益、敬愛もいいことだが自分だけでなく衆生利益につながるかが大事。
「俺が、俺が」からどこまでも離れられないのは仏教の祈願にならない。
聖天様などは先ず仏力をしまして信仰を起こさすため。初めの祈願は一応かなり身勝手でも叶ったりする。それで食い逃げすれば不徳になるだけ。悪業となる。
聖天様は何でも叶うけど怖いというわけはそういうことでしょう。。
うちはたとえ聖天様でもそういう祈願は叶えないようにしてます。大概は十ちゅう八九悪い方向に行くから。
ご利益食い逃げ希望の方にはうちは全く魅力のない、超つまらないお聖天様の祈願しかしていないところです。
エグイご利益希望!そういう方はどうか来ないでください。(笑)
だから調伏のような祈願であっても。それがしいては衆生救済につながるなら仏教の祈願であるし、つながらないならただの呪詛や魔行であってそれは仏教の祈願には到底ならないね。
普賢十大願の「恒順衆生」こそが仏教の祈願のベースです。