金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

三つの口伝

きのう、ある術者の方のお話を伺いに東京に。
この術者は民間呪術の伝承者。神道でも仏教でも修験道でもないけど。スピ系でもなく、日本古来の地方宗教に残るまじないの伝承者です。

そうとうできる方です。
・・・というのはこんな話を伺った。まじないは
「願うな。触るな。叶えるな。」だというのです。
そのように古代から伝承されていると聞きました。
「え、それじゃ『まじない』にならないのでは?」と思う方もいるでしょうね。

思うに勿論、これはまじないの機能ではなく術者の心得です。
この方はまじないはキッチリしっかりやるその道の達人です。うれっこで海外からも声はかかるわ。何十人もキャンセル待ちしているくらいの方ですから・・・。

つまり祈願をかなえるのは「まじない」がすること。術者自身が案件をダイレクトにはあつかえない。
「かなえるな」です。
たとえば病気のまじない、病気自体は医者や薬剤師でもないのに直接どうこうできはしない。「まじない」まかせです。
祈祷なら本尊任せ。「かなえるな」というのはそういうことじゃないかな。

もっと言うなら医者や薬剤師だって医術や薬がなおすので医者や薬剤師という人間そのものがなおせるわけじゃない。
祈祷も行者が結果は出せない。結果だせるのは本尊のみ。
出ない場合だってある。

「さわるな」には余計なことに関わらないという意味があると思います。
宗教者だってトータルに人を扱えるわけじゃない。人には皆自分の人生を生きるという課題がある。コイツに任せれば万事うまくいくから人任せというのはルール違反です。
人生の価値は「楽に速く」ではない。そこは文明とは違う。
だから余計なことにまで関わったり、口出ししたりするのは禁物。人の代わりに生きることは出来ない、人生は代行できない。まして「結果」でないのは文句言われても「結果」という商品をお届けするのではないので無理です。


だから同時に「願うな。」ですね。術者がすべきなのは、「術」だけ。
プリン作って冷蔵庫に入れて早くできろと願ったって無駄です。時間がこなきゃかたまんない。早くはできない。
祈祷もきっちり祈祷するだけ。歯を食いしばって力入れても何も変わらない。結果は出ない。無駄です。
とえば私は祈るけど願うのはあくまでご本人。
例えば願い即祈りなら子供の病気や試験なんかは親が祈るほうが私が祈るよりよほど聞くはず。
願いを届けるのが私の仕事。願うのは本人。そこ勘違いして願いまで私がするんだと思っている。
そういう人はお参りもしないね。お参りもろくにしない人の祈願は空の手紙を封筒だけ本尊に届けるのと変わらないね。それで叶わないと文句言っても知ったことではないわ。不養生のしたい放題しておいて金出してるんだから俺を健康にしろよと医者に行っても無駄なのと同じことです。

世の中に悲惨なこと、酷いことは山ほどある。
だからと言って神様仏様が見ていてなんかしてくれるわけじゃない。
巨大災害だって止めてくれるわけじゃない。
そういう考え方は究極、神仏を恨む考えになる。
アクセスするのは我々の方でしないといけない。だから祈りのないところにこたえるものは何もない。
その対象として先人は祈願すべき神仏という概念を作ってきたのでしょう。