金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

壇上は戦場?

朝四時から自動車で奥の院に出発

本日飯縄山で本尊壇に登壇したところ
ただちに「汝これよりはここに登壇するたびに『いくさ場』と心得よ。
我は弓矢の神なり。
登りて明日あると思うなかれ。
今日限りと思えば果たして何を願う。
さすれば何を祈らんとするか。
それこそがけがれなき真の祈りぞ。」
大変厳しいことを言われました。

霊狐さんは「それはな、ようやくお上がお前をほんの少しは本気で相手をされたということだ。」と笑われた。
然し遠い道です。「生きているうちにはとても届かぬかも・・・・」
「まあな。そうかも知れぬがな。」とまた笑われた。

本地護摩では「貪瞋痴の三毒を焚くのが護摩修行だ。
貪は貪る心、瞋恚は怒りだ。それは知っていようが。
されば痴は何を焚く?
 増上慢こそ焚くのだ。」と言われました。
なるほど反省の全くない増上慢は仏から見れば愚かさの極みですね。

難しいが実りある一日でした。

古来戦神と言われる飯縄明神。
たとえば武田、上杉、北条と敵味方を問わず戦国時代にはよく信仰された神です。
しかし神仏が戦を喜ぶわけもなく、戦においてどちらかに加担することも考えられない。
さすれば「弓矢の神」とは何か?
戦という絶体絶命の場において、なお人の真の在り方をぎりぎり極めるための存在こそ戦神と言われる存在ではないだろうか?
されば戦なき世にもそうした崖っぷちの真を問う神なのだろう。