貪瞋痴の三毒の煩悩のうち。貪りと瞋恚(怒り)はわかりやすい。
だが愚痴は難しい。
愚かなことを仏教用語で愚痴と言うが、愚かさがわかればもう愚かではない。
その愚かさがわからないからこそ愚かなのだ。ゆえにそこは多分に逆説的だ。
よくお説教を聞いても実はしゃべっている坊さん自身が「ここが本当はわかっていないのでは?」と思うものも多い。
たとえばよくあるように「仏教では貪る、怒り、愚かさを去ることが大事なんです!」というサラッとしたお説教を皆々ウンウンとうなずいて聞いているが、私は若いころから「へえ、すごいな。この話だけで分かるのか。全然わかんないや・・・・」と思っていた。
しかも、この愚痴とは知能程度がどうこうといったことではない。
仏弟子にはパンタカのように知的障害があってもひたすら箒木を以て煩悩を去ると思って掃除をした末に阿羅漢になったものもいる。
思うにこの愚かさを具体的に防ぐとするならば心すべきは、この愚痴とは「愚かではない、自分はわかっている。」といった増上慢のことをいうのだろう。
態度として言うなら「自分は間違っているかもしれない」「何もわかっていないのかも?」という「疑い」を大事にしろということだと思う。
それがあれば決めつけることもしないし、むやみに人を批判することもしないで済む。
私の思う愚痴に対する対策はそういったところだと愚痴の身で思います。
お釈迦様は人がせっかく生まれてもしまいに病気になり、老いたりして例外なく死ぬことに大いに驚いて、王座を捨ててそれを解決する道を求められた。
普通考えたら世間知らずにもほどがある。アホか?と思う。
心理学的に言えば一種の「社会不適応症」でアスペルガーかもしれない。
それで「生命とは生老病死の四苦はまぬかれない」ということにまず到達された。
「そんなの、当たり前じゃないか。馬鹿じゃないの?」というのが普通だ。
だがそういう普通じゃなかったお釈迦様がいたからこそ仏教は始まった。
「当たり前じゃないかもしれない」という疑いは大事だ。
思い込みに対する疑い
それこそが愚痴を破る道ではないでしょうか。