「 人はなにごとであれ、思うようにしようとする。それは人の癖だから、どうしようもない。そういうものだと心得ておくしかない。それを説くのが仏教だと、私は勝手に信じている。他の宗教はそれをいわない。いわないと思う。むしろ徹底的にやれという。宗教を信じること自体についても徹底を要求する。
自爆テロを見ても、それに反対してテロ撲滅に動く人を見ても、そう思う。相手を殺しても、逆に自分が死んでも、ともかく「思うように」しようとする。もう勘弁してよと、体力のなくなってきた老人は思うが、容赦がない。 容赦という言葉は、西洋語やアラビア語になるんだろうか。魯迅だって、「水に落ちた犬を打て」と書いていたはずである。 「世界はイヤなところだと思え」。そう書いていたのは関川夏央氏である。こういう点では、私もそう思う。いまでは世界は人間でできているというしかない。その人間の悪いところを無限に拡大するようなことは、勘弁してほしいと思う。でもそうはいかないといいつつ、欲望は無限に増大するように見える。やっぱりお釈迦様は偉い。」
仏教の原点は人間観察から始まっている。だから比較的無理がない。
創造主のような最初に至高の存在があって云々ではない。
そこがほかの宗教と違う点であると思います。
したがって仏陀や菩薩が出てくるが、そこがない宗教は仏教的要素はない。
教義の上では仏教ではない。
最近の新宗教にはアラーの神だのイエスだの釈迦だの日蓮だのいろいろ出てくるがそういうシンクレティズムが成り立つ基盤がない。
そう言うのは基盤はよその天体だったり、全く別の神様だったりする。
昔知人で「これは真実の仏様の教えでもあるので」と新宗教のパンフをおかせてという人がいたが、こういう人は宗教の何たるかがまるでわかっていない。
赤子のような幼稚な認識だ。
私自身はほかの宗教については知らないという認識でいる。
社会的に有害でないならなんであれ信じる人自身は否定しない。
それでいいだろう。
私に関係ない。
それが「宗教によって人を差別しない」ということでもある。
だが私自身は基本、大乗仏教しか信奉していない
歴史的に大乗を背景とした教えでもある神道は大事に思う。
だが私は地盤のまるきり違う他の宗教までも認めてはいない。
信じる人の尊厳のみを認めるだけだ。
その宗教の教義は私においては否定されているのだ。
この区別は大事だと思っている。
だから釈迦もイエスもギリシャの神様もゴッチャゴチャの人は当院では認めない。
来るところを間違えている。
深く知れば何でもごっちゃではない。